ローマ帝国におけるキリスト教の国教化とは? わかりやすく解説

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ローマ帝国におけるキリスト教の国教化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:29 UTC 版)

古代末期のキリスト教」の記事における「ローマ帝国におけるキリスト教の国教化」の解説

364年帝国ウァレンティニアヌス1世在位364年 - 375年)は弟ウァレンス共同統治され、ウァレンティニアヌス朝はじまったウァレンティニアヌス1世皇帝宗教の自由宣言したローマ司教ダマスス対立司教ウルシヌスと争うと、ウァレンティニアヌス1世によって和解したが、その後対立続いた他方ウァレンティニアヌス1世の弟ウァレンス共同皇帝在位364年 - 378年)は、アリウス派擁護しアタナシオス追放した366年頃から状況次第アタナシオスに有利となり、アタナシオスアレクサンドリア司教の座に戻り三位一体教義固めた378年教会会議決議承認ウァレンス皇帝求めると、皇帝教会自由な司教選挙権利と、教会法廷の権限承認した。これによって司教による判決に対して世俗権力による執行確約された。しかし、375年以降フン族侵入によって、フン族黒海北岸にいた東ゴート族服属させ、ゲルマン民族の大移動開始されると、376年にはゴート族ドナウ川突破しローマ帝国領内侵入開始しゴート戦争がはじまっていた。378年ローマ皇帝ウァレンスハドリアノポリスの戦いゴート族敗れ戦死した以後トラキアゴート族支配したウァレンス死んだあと、ウァレンティニアヌス1世息子グラティアヌス在位375年 - 383年)とウァレンティニアヌス2世兄弟西ローマ帝国統治者となった379年グラティアヌス帝(在位375年 - 383年)はテオドシウス在位379年 - 395年)を東ローマ帝国共同皇帝任命した。このテオドシウス皇帝カトリック強力な支持者となり、380年勅令によってテオドシウス1世カトリックニカイア信条正統とし、アリウス派コンスタンティノポリス司教デモフィロスを追放しカトリックナジアンゾスのグレゴリオス後任とした。380年2月28日西ローマ帝国グラティアヌス皇帝東ローマ帝国テオドシウス1世勅令キリスト教国教とし、ローマ帝国市民キリスト教義務づけた。こうして東方教会では皇帝優位主義の下のビザンティン帝国教会決定し、これに対して西方教会帝国教会主義に対して教会の自由を擁護したこの頃キリスト教教義解釈について、東のギリシア語と西のラテン語との間で神の本質位格について、東西教会はともに相手異端疑いがあるとしていたが、東西解釈一致させるために、東のカッパドキアバシレイオスと西のヒエロニムス働いた381年第1コンスタンティノポリス公会議ではアリウス派排斥しキリストを「あらゆる世に先立って父より生れ」、聖霊は「父から出て父と子とともに礼拝され崇められ」と付け加えて三位一体論固めニカイア・コンスタンティノポリス信条採択したまた、アポリナリオス主義排斥した。この公会議によって、コンスタンティノープル司教ローマ司教に次ぐ第二地位得た。さらに、当時総大司教区は帝国文化州に対応しており、アレクサンドリア司教区エジプトアンティオキア司教区は大シリア・シチリア・キプロス、ローマ司教区西ヨーロッパ管轄しコンスタンティノープル司教ギリシアバルカン組み入れていたが、皇帝コンスタンティノープル司教ポントゥスアジアトラキア総大司教区として与えたコンスタンティノープル司教地位上昇させた第1コンスタンティノポリス公会議決定ローマ司教反対した。全教会におけるローマ司教普遍的首位権クレメンス時代から保持されてきたが、コンスタンティノープル司教権力強くなるにつれ、ローマ司教使徒ペトロス権能強調するようになった。しかし、ローマ司教権能中部イタリアでは強かったが、アフリカイスパニアでは弱かった382年グラティアヌス帝は、ミラノ司教アムブロシウス勧めによって、ローマ元老院議場設置されていたローマ神話勝利の女神ウィクトリア像を撤去した。この像は、以前コンスタンティウス2世によって撤去されたが、反キリスト教の議員によって復帰されていた。その後フランク人のアルボガステス将軍傀儡だった対立皇帝エウゲニウスがウィクトリア像を戻した撤去され、さらにホノリウス皇帝在位393年 - 423年時代ヴァンダル族将軍スティリコがまた戻したが、その後ついに廃棄された。また、グラティアヌス帝はアタナシオス派支持してアリウス派追放したグラティアヌス帝は皇帝兼ねてきた称号であった最高神官職(ポンティフェクス・マクシムス)を取りやめた。しかし、383年グラティアヌス帝はブリタニア総督マクシムス反乱ガリア戦死したウァレンティニアヌス2世東ローマ逃げると、マクシムス数年イタリア支配したが、フランク人将軍アルボガスト388年マクシムス殺害したテオドシウス帝はギリシア・ローマ神々礼拝禁止し神殿の破壊命じた同時期にローマ教皇ダマスス1世の命でヒエロニムス聖書ラテン語訳着手しウルガタ標準ラテン語訳聖書)は405年頃に完成した388年テオドシウス1世カトリックのみを唯一の公式宗教国教)に定め392年には、ギリシア・ローマ神々などすべての異教(多神教)の礼拝禁止した紀元前8世紀ヌマ・ポンピリウス王の時代から燃やされ続けたウェスタ神殿の火は消されウェスタの処女聖職者団は解散された。こうしてローマ帝国キリスト教浸透し、週7曜制として日曜日主日とし、教会都市の目立つ存在となり、荘厳な礼典整備されていき、司教権威社会認められていっただけでなく、ミラノ司教アンブロジウステオドシウス帝のユダヤ教シナゴーグ焼き討ち賠償令を撤回させたり、また390年テッサロニキ処刑について皇帝懺悔をさせるほどに権力を持つようになっていた。 ウァレンティアヌス2世392年死亡、さらにテオドシウス394年西征エウゲニウスを倒すと、ローマ帝国最後東西統一となった395年テオドシウス1世死去し東ローマ帝国アルカディウス帝が、西ローマ帝国ホノリウス帝が継承したが、これ以降ローマ帝国統一されることはなかった。

※この「ローマ帝国におけるキリスト教の国教化」の解説は、「古代末期のキリスト教」の解説の一部です。
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