ローマ帝国による統治とは? わかりやすく解説

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ローマ帝国による統治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/08 06:16 UTC 版)

アエギュプトゥス」の記事における「ローマ帝国による統治」の解説

古代エジプト王朝 王朝誕生前のエジプトエジプト初期王朝第1 第2 エジプト古王国第3 第4 第5 第6 エジプト第1中間期第7 第8 第9 第10 エジプト中王国1112 エジプト第2中間期1314151617 エジプト新王国181920 エジプト第3中間期21並立アメン大司祭) 第2223242526 エジプト末期王朝時代2728293031 グレコ・ローマン時代アレクサンドロス大王 プトレマイオス朝 アエギュプトゥス 表 話 編 歴 初代ローマ皇帝アウグストゥスは、アエギュプトゥスローマ皇帝私領とした。最後の王朝であるプトレマイオス朝含め古代エジプト歴代の王ファラオは神として扱われ人間による統治受け入れられなかった。そのため、他の属州のように「人」である一総督支配する事を許さない状況であったアウグストゥス養父たるガイウス・ユリウス・カエサルは、死後ローマ元老院決定により神格化なされており、言わばアウグストゥス神の子であり、この地を統治する資格有していたとされる。ただし、ローマ帝国屈指の穀倉地帯私領とする事で、ローマ皇帝多大な収益もたらしたのは事実である。 アエギュプトゥスには、初代総督としてガイウス・コルネリウス・ガッルス(紀元前30年-紀元前26年任期、以下同様)赴任した。彼は軍を率いてエジプト南部支配下におき、 プトレマイオス朝放棄した南部国境地帯ローマ保護国とした。その次の総督はガイウス・アエリウス・ガッルス(紀元前26年-紀元前24年)で、彼は結果的に失敗したが、アラビア半島のアラビア・フェリクス(現イエメン)まで遠征した。3人目総督はガイウス・ペトロニウス(紀元前24年-紀元前21年)で、彼は農耕盛んにする灌漑のために、荒れて使われなくなっていた運河復興したエジプト紅海沿岸領域までローマ支配下に入るのは、皇帝クラウディウス時代41年-54年)である。 皇帝ネロ時代54年-68年)に始まったユダヤ戦争66年-73年)では、70年エルサレム攻囲戦 (70年)エルサレム破壊されアレクサンドリア世界中ユダヤ教ユダヤ文化にとって中心地となっていた。その後1世紀にわたり、アエギュプトゥスはよく繁栄した。ただし、ギリシア人ユダヤ人との間でしばしば宗教理由とする争い起こり、特にアレクサンドリア激し暴動があった。 皇帝トラヤヌス98年-117年)の時代には、115年にキトス戦争英語版)と呼ばれるユダヤ人反乱起こった。この結果ユダヤ人中心地であるアレクサンドリア制圧され、彼らに与えられていた様々な恩典失われることになった皇帝ハドリアヌス117年-138年)はアエギュプトゥスを2回訪れ寵愛していたが溺死してしまったアンティノウスアンティノオスにちなん新都市アンティノオポリスを建設したハドリアヌス帝時代以降グレコ・ローマン様式建物国中建設されるようになったローマ皇帝マルクス・アウレリウス161年-180年)は、増税したことにより現地エジプト人の反乱招いた172年イシドルス英語版率いるブコリック戦争英語版)と呼ばれる反乱起こり数年制圧されたものの、地域経済大きな打撃となり、これを契機としてアエギュプトゥス経済衰退始めた。さらに、ローマ軍率いて反乱制圧したガイウス・アウィディウス・カッシウスは、この後に自らローマ皇帝僭称した。アエギュプトゥスシュリア属州の兵達はいったんはカッシウス帝位承認したが、マルクス・アウレリウス帝の軍隊近くまで迫ると、カッシウスの位を奪い彼を殺したマルクス・アウレリウス残った兵達を処罰しなかったので、この後平穏戻った。これに似た反乱193年にも勃発したこの年皇帝になったペルティナクス帝がすぐに暗殺されると、シュリア属州ペスケンニウス・ニゲル皇帝名乗りを上げアエギュプトゥスの軍もそれを支持した。しかし、ニゲル皇位簒奪失敗してセプティミウス・セウェルス皇帝となったローマ皇帝カラカラ211年-217年)は、他の属州と同様、自由民である全てのエジプト人にローマ市民権認めたアントニヌス勅令)。ただし、これは税収増やすことが目的で、帝国財政歳入増やして破綻向かっていた。3世紀の間には、相次いで軍事的政治的な反乱起こった3世紀の危機軍人皇帝時代)。総督ルキウス・ムッシウス・アエミリアヌス(en)は、260年にはガッリエヌス帝に叛旗翻したマクリアヌス親子支援しティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥス殺害された翌261年には自らが皇帝名乗りを上げたが、部下の裏切りにより殺害された。 272年にはパルミラ帝国ゼノビア一時的にアエギュプトゥス征服してローマ迫ったが、ローマ皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス遠征軍敗れたアエギュプトゥス軍人決起成功したものもあり、プロブスローマ皇帝となった232年-282年)。ドミティウス・ドミティアヌス(en:Domitius Domitianus)もローマ皇帝名乗ったが、ディオクレティアヌス帝にアレクサンドリア奪われ敗れた296年)。ディオクレティアヌス帝は属州全体再編した

※この「ローマ帝国による統治」の解説は、「アエギュプトゥス」の解説の一部です。
「ローマ帝国による統治」を含む「アエギュプトゥス」の記事については、「アエギュプトゥス」の概要を参照ください。

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