ローマ帝国による統治
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「アエギュプトゥス」の記事における「ローマ帝国による統治」の解説
古代エジプトの王朝 王朝誕生前のエジプトエジプト初期王朝第1 第2 エジプト古王国第3 第4 第5 第6 エジプト第1中間期第7 第8 第9 第10 エジプト中王国第11 第12 エジプト第2中間期第13 第14 第15 第16 第17 エジプト新王国第18 第19 第20 エジプト第3中間期第21(並立:アメン大司祭) 第22 第23 第24 第25 第26 エジプト末期王朝時代第27 第28 第29 第30 第31 グレコ・ローマン時代アレクサンドロス大王 プトレマイオス朝 アエギュプトゥス 表 話 編 歴 初代ローマ皇帝アウグストゥスは、アエギュプトゥスをローマ皇帝の私領とした。最後の王朝であるプトレマイオス朝も含め、古代エジプトの歴代の王ファラオは神として扱われ、人間による統治は受け入れられなかった。そのため、他の属州のように「人」である一総督が支配する事を許さない状況であった。アウグストゥスの養父たるガイウス・ユリウス・カエサルは、死後にローマ元老院の決定により神格化がなされており、言わばアウグストゥスは神の子であり、この地を統治する資格を有していたとされる。ただし、ローマ帝国屈指の穀倉地帯を私領とする事で、ローマ皇帝に多大な収益をもたらしたのは事実である。 アエギュプトゥスには、初代総督としてガイウス・コルネリウス・ガッルス(紀元前30年-紀元前26年:任期、以下同様)が赴任した。彼は軍を率いてエジプト南部を支配下におき、 プトレマイオス朝が放棄した南部国境地帯をローマの保護国とした。その次の総督はガイウス・アエリウス・ガッルス(紀元前26年-紀元前24年)で、彼は結果的には失敗したが、アラビア半島のアラビア・フェリクス(現イエメン)まで遠征した。3人目の総督はガイウス・ペトロニウス(紀元前24年-紀元前21年)で、彼は農耕を盛んにする灌漑のために、荒れて使われなくなっていた運河を復興した。エジプトの紅海沿岸の領域までローマ支配下に入るのは、皇帝クラウディウスの時代(41年-54年)である。 皇帝ネロの時代(54年-68年)に始まったユダヤ戦争(66年-73年)では、70年にエルサレム攻囲戦 (70年)でエルサレムが破壊され、アレクサンドリアは世界中のユダヤ教とユダヤ文化にとって中心地となっていた。その後1世紀にわたり、アエギュプトゥスはよく繁栄した。ただし、ギリシア人とユダヤ人との間でしばしば宗教を理由とする争いが起こり、特にアレクサンドリアで激しい暴動があった。 皇帝トラヤヌス(98年-117年)の時代には、115年にキトス戦争(英語版)と呼ばれるユダヤ人の反乱が起こった。この結果、ユダヤ人の中心地であるアレクサンドリアは制圧され、彼らに与えられていた様々な恩典は失われることになった。皇帝ハドリアヌス (117年-138年)はアエギュプトゥスを2回訪れ、寵愛していたが溺死してしまったアンティノウス(アンティノオス)にちなんだ新都市アンティノオポリスを建設した。ハドリアヌス帝の時代以降、グレコ・ローマン様式の建物が国中に建設されるようになった。 ローマ皇帝マルクス・アウレリウス(161年-180年)は、増税したことにより現地エジプト人の反乱を招いた。172年にイシドルス(英語版)率いるブコリック戦争(英語版)と呼ばれる反乱が起こり、数年で制圧されたものの、地域経済に大きな打撃となり、これを契機としてアエギュプトゥスの経済が衰退を始めた。さらに、ローマ軍を率いて反乱を制圧したガイウス・アウィディウス・カッシウスは、この後に自らローマ皇帝を僭称した。アエギュプトゥスとシュリア属州の兵達はいったんはカッシウスの帝位を承認したが、マルクス・アウレリウス帝の軍隊が近くまで迫ると、カッシウスの位を奪い彼を殺した。マルクス・アウレリウスは残った兵達を処罰しなかったので、この後は平穏が戻った。これに似た反乱は193年にも勃発した。この年に皇帝になったペルティナクス帝がすぐに暗殺されると、シュリア属州のペスケンニウス・ニゲルが皇帝に名乗りを上げ、アエギュプトゥスの軍もそれを支持した。しかし、ニゲルの皇位簒奪は失敗して、セプティミウス・セウェルスが皇帝となった。 ローマ皇帝カラカラ(211年-217年)は、他の属州と同様、自由民である全てのエジプト人にローマ市民権を認めた(アントニヌス勅令)。ただし、これは税収を増やすことが目的で、帝国の財政は歳入を増やしても破綻に向かっていた。3世紀の間には、相次いで軍事的・政治的な反乱が起こった(3世紀の危機、軍人皇帝時代)。総督ルキウス・ムッシウス・アエミリアヌス(en)は、260年にはガッリエヌス帝に叛旗を翻したマクリアヌス親子を支援し、ティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥスが殺害された翌261年には自らが皇帝に名乗りを上げたが、部下の裏切りにより殺害された。 272年にはパルミラ帝国のゼノビアが一時的にはアエギュプトゥスも征服してローマに迫ったが、ローマ皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスの遠征軍に敗れた。 アエギュプトゥスの軍人の決起で成功したものもあり、プロブスはローマ皇帝となった(232年-282年)。ドミティウス・ドミティアヌス(en:Domitius Domitianus)もローマ皇帝を名乗ったが、ディオクレティアヌス帝にアレクサンドリアを奪われて敗れた(296年)。ディオクレティアヌス帝は属州全体を再編した。
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