初期王朝
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クスコに成立した初期王朝のサパ・インカは次のとおりである。以下、太字斜体はケチュア語。 マンコ・カパック(Manqu Qhapaq、英: Manco Capac) シンチ・ロカ(Sinchi Ruq'a、英: Sinchi Roca) リョケ・ユパンキ(Lluq'i Yupanki、英: Lloque Yupanqui) マイタ・カパック(Mayta Qhapaq、英: Mayta Capac) カパック・ユパンキ(Qhapaq Yupanki、英: Capac Yupanqui) 初期王朝は別名を「下王朝」(hurin)といい、事績は若干伝わっているものの、たぶんに伝説的である。特に初代のマンコ・カパックについては実在が疑問視されている。なお、カパックは後に将軍を意味し、シンチは指導者を意味する。一般的には、13世紀に王朝が始まったと考えられている。
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初期王朝
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ナルメル王によって上エジプト王国による下エジプト王国の征服が完了する。なお、この時代の数少ない遺物であるナルメルのパレットは、この征服を記念して奉納されたものとみられている。パレットには、上エジプトを象徴する白冠と下エジプトの赤冠をそれぞれ着用したナルメルが描かれ、ナルメルが両国の王となったことを表している。ところで、アビドス王名表(英語版)の一番目に書かれている王名は「メニ」であるが、これをナルメルに推定する説が主流である。よって以下ではメニとナルメルは同一人物として記述する。ナルメルは統一王国の首都として、上下エジプトの境界にあるイネブ・ヘジュ(白い壁とも。現メンフィス)を建設した。 このような連合国家においては前述した灌漑水路の統制権力を通じて、王権が形成されたと言えるが、実際には主として宗教的権威が強かったようである。すなわち王は王家の出身地ティニス地方の守護神である鷹神ホルスの化身とされていた。同様の鷹神は下エジプトにおいても信仰されていたため、征服された側の下エジプトにも容易に受けいれられたようである。この鷹を王は宮殿を模した枠であるセレクの周囲に配置した。これが「ホルス名」と呼ばれる称号である。 さらに、王国の統一を記念して王の第二名である「ネブティ名」が加えられる。これは二柱の動物化した女神からなり、それぞれが上下エジプトの象徴となっているため、王が両方の土地の守護神の化身であることを示したものである。 しかしながら、第1王朝5代デン王の時に「上下エジプト王名(即位名)」が王の称号に加えられたことにより王権は一度強く変革する。ここでは、王はすでに神の化身とはされておらず、王は上エジプトと下エジプトの「所有主」とされており、王は神の化身としての宗教的権威に加え、国土の所有者であるというより現実的な「政治的権威」をも持ち合わせた。さらに、王位更新祭(セド祭(英語版))を慣例に反して王主導で実行するなど、王の現実的権威が確立され、神王の理念が発展したと言える。 この後王朝は第2王朝へと推移するが、ここでセト・ペルイブセン王の登場により王の主神の変更が発生する。 この王は、初期段階はホルス名セケムイブを用いていたが、治世の途中にホルスではなく、戦神セトをセレクの上に置き(いわゆる「セト名」)ペルイブセンと名乗った。この理由については推測の域を出ないが、現実的な王権に対する上エジプトの伝統主義者による反動と見做せる。なぜならば、セトはもともと上エジプトのオムボスの神であり、上エジプトの首長たちがペルイブセン王を擁立して前時代的王権への復帰を画策したものと考えられる。しかしながら次王のカァセケムウィはホルスとセトを同時にセレクの上におき、セトの優位性が薄れた。 その後古代エジプト文明を通じて、セト名を用いた王は一人もいないことより、王権の変化を目指す試みは失敗したようである。
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