初期王権とは? わかりやすく解説

初期王権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 13:27 UTC 版)

フランク王国」の記事における「初期王権」の解説

フランク王権概念どのようにして成立したかについては、数多く研究者によって多様な見解述べられてきた。フランク族を含むゲルマン王権考え場合伝統的に神聖王権」と「軍隊王権」という2つ概念が特にドイツ学会において中心的な概念としてとらえられている。神聖王権とは特定の王家血統神聖性、時に神に連なる系譜によってその所属者部族繁栄もたらす特殊な力を持っていたと考えられていたことにより王位正統性認識されていたとするものであり、一方軍隊王権は、王の軍事指導者将軍として性質重要視し戦争における勝利を齎せるものが王として認められたとするのであるフランク族王として権力確立したメロヴィング家が、実際にどのような経緯経て王者として認められる至ったかについては史料的制約によりわかっていない。ただ、クローヴィス1世時代にはすでにメロヴィング家出身者だけが王となれることが彼の部族では自明のこととなっていた。メロヴィング王家象徴するものに、王族にだけ認められ長髪がある。メロヴィング家王家青年期達した男子施される最初断髪」を免れ長髪保持していた。また、キルデリク2世息子ダニエル即位時には彼の髪の毛十分に伸びるのを待ったうえでキルペリク2世として王とされていることも長髪が王の象徴であったことを示す。このような王の長髪かつては上述ゲルマン的「神聖王権」説と結びつけられ解釈されていたが、今日ではそのような見解を取る学者わずかにかいない五十嵐修は、メロヴィング家の王の長髪について、アレマン人が髪を赤く染めザクセン人前頭部の髪の毛剃ったように、ゲルマン人一般的に見られる部族への帰属を示す外見上の表現一種にすぎないものとしている。 同様に五十嵐フランク人王権大枠として「軍隊王権」としてとらえている。フランク人の王は伝統的なゲルマン的な王権というよりも、西ローマ帝国混乱多様な形でフランク人たちが関わる中で、戦時における指揮官指導者たちがその成功によって部族民から王として認められたものであるとされるキルデリク1世は、きわめてローマ的な姿を描いた遺物残しているのみならず印璽用いていた。当時ゲルマン人たちは文字を持たなかったことから、この印璽ローマ系住民への命令ローマ将軍との交渉において必要なものであった考えられる。これらのことからフランクの王は、彼らを軍事力として必要とした西ローマ帝国との関与の中で、ローマ帝国内部において形成されたものである考えられる

※この「初期王権」の解説は、「フランク王国」の解説の一部です。
「初期王権」を含む「フランク王国」の記事については、「フランク王国」の概要を参照ください。

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