初期王朝時代
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詳細は「エジプト初期王朝時代」を参照 前4千年紀末頃からエジプトではおぼろげながら文字史料によって歴史を復元できるようになる。後世のエジプトの伝説では、初めて上下エジプトを統合し、エジプトに統一王朝を築いた王はメネス(メニ)である。一方で考古学的見地から統一王朝の最古の王である可能性が高いと見られるのはナルメル王である。ナルメルが興したとされる王朝をエジプト第1王朝とし、以降の時代は第31までの番号で分類される歴代の王朝の歴史として整理されている。ただし、実際にエジプトの「最初の王」が誰であったのかについては今なお定説があるわけではない。伝説のメネス王を第1王朝の王のいずれかの王と同定しようとする試みが続けられており、あるいはメネスは初期王朝時代の複数の王の記憶の習合によって誕生したものであるかもしれない。 初期王朝時代の間に(後世の伝説によれば第1王朝)の時代に、上エジプトと下エジプトの結節点にあたる土地にイネブ・ヘジ(白い壁)と呼ばれる都市が建設された。この都市は後にメンフィスと呼ばれるようになり、古代エジプト時代を通じてエジプトの中心的都市の1つとなった。この都市に建設されたプタハ大神殿の名称、フゥト・カ・プタハ(プタハ神の魂の家)は、後にギリシア語でアイギュプトス(Aigyuptos)と訛り、今日のエジプト(Egypt)の語源となったとする説もある。また、エジプトの王たちは王権の確立に力を注ぎ、公式に用いる王名の確立(ホルス名)や、古代エジプト時代の地方行政区分であるノモス(セパト)の萌芽ともいえるシステムが整備されたと見られるなど、後の古代エジプト世界の基本的要素が形成された。
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初期王朝時代
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初期王朝時代のシュメールは各都市国家が覇権を争った時代である。この時代について伝えているのは『シュメール王朝表(シュメール王名表)』と呼ばれる文書群である。これは南部メソポタミアでもっとも強力だった歴代の諸王朝・諸王の統治年数が羅列されている文書である。非常に伝説的色彩が強い文書であるが、シュメールの都市国家の歴史についての情報を引き出すことができる。 『シュメール王朝表』によればシュメール南部の都市エリドゥで初めて王権が成立し(王権が天から降り)た。次いでバド・ティビラ、ララク、ジムビル、シュルッパクに順次王権が移っていったと言う。これらの都市の王たちには数万年に及ぶ在位期間が設定されているなど神話的な伝承となっている。そして伝説的な大洪水があったとされ、『シュメール王朝表』では歴史は洪水以前と以後に分けられている。 『シュメール王朝表』によれば「洪水」のあとに最初に王権があったのはキシュ(キシュ第1王朝)であり、ついでウルク(ウルク第1王朝)に王権が遷ったという。キシュやウルクの初期の王たちは後世のメソポタミアで尊崇の対象となり各種の伝説が残されている人物も多い。キシュの王朝の事実上の創始者に位置づけられているエタナや、ウルクの王エンメルカル、ルガルバンダ、そして古代メソポタミアにおいてもっとも有名な英雄であるギルガメシュ(ビルガメシュ)などが代表的である。 『シュメール王朝表』は非現実的な王の在位年数や、実際には同時代に並立していたと考えられる王朝を縦列で繋ぎ順番に交代した形で叙述するなど、その内容はそのまま史実として受け取れるものではない。同時代史料によってより実際的な歴史が復元できるようになるのは前2500年ごろ以降、初期王朝時代の末期からである。都市国家ラガシュで発見された一連の碑文によってこの時代の都市国家間相互の争いの一端を伺い知ることができる。ラガシュは長らく、隣接する都市国家ウンマとの間で境界をめぐって戦っており、ラガシュの王たちは過去から続くウンマとの戦いを碑文に記録した。このラガシュとウンマの戦争の記録は世界でもっとも古い歴史叙述とも評される。 こうした都市国家間の覇権争いで次第に優位となったのはウルクであり、一都市国家を超えた領域国家を形成し始める。前2400年ごろのウルク王エンシャクシュアンナは「国土の王」という新たな称号を採用し年名を採用しするなど、シュメール地方全域における権威を示している。そしてウルク王ルガルザゲシ(在位:前24世紀ごろ)がシュメールの主要都市を征服した。
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初期王朝時代
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最古の貴族の墳墓はエジプト第1王朝のもので、サッカラ平原の北端にある。このころ、王家の墓はアビュドスにあった。サッカラでの最古の王家の墓はエジプト第2王朝のもので、地下回廊で構成されている。第2王朝の最後の王カセケムイはアビュドスに埋葬されたが、大きな矩形の囲いから成る埋葬記念碑 Gisr el-Mudir がサッカラに建てられた。これが後の階段ピラミッド複合体を取り囲む記念碑的な壁の着想の元になったと見られている。ジェセル王の複合埋葬施設はイムホテプが建設したもので、多数のダミーの建物が付属しており、二次的なマスタバもある。フランス人建築家でエジプト学者の Jean-Philippe Lauer は、このジェセルのピラミッド複合体の発掘と復元に生涯の大部分を捧げた。
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初期王朝時代(第1 - 2王朝)
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「古代エジプト」の記事における「初期王朝時代(第1 - 2王朝)」の解説
紀元前3150年頃、上エジプトのナルメル王が下エジプトを軍事的に征服し、上下エジプトを統一してエジプト第1王朝を開いたとされる。従来はエジプト第1王朝の建国者とされてきたメネス王がナルメル王にあたるのか、それとも別の王に比定されるのかについては諸説ある。また、ナルメルは上下エジプトの王として確認される最古の王であるが、ナルメル王よりも古い上下エジプトの王がいた可能性もある。ヘロドトスによれば第1王朝期に、上下エジプトの境界地域に首都としてメン・ネフェル(メンフィス)が築かれたとされ、以後第一中間期の第8王朝にいたるまでエジプトの各王朝はここに都した。エジプト第1王朝は紀元前2890年頃に王統の交代によってエジプト第2王朝となった。この初期王朝時代の2王朝については資料が少なく、不明な点も多い。
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初期王朝時代
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初期王朝時代は黎明期と呼ばれる紀元前3150年から3050年頃までの第1王朝以前と、第2王朝が終わる紀元前2686年頃までの二つに分けることができる。黎明期は先王朝時代の各王朝(紀元前5000年頃から興った上下エジプトの王朝)を統一した年代とされており、一般にはナルメルがその創始者であるとされる。また、別の王として上エジプトのヒエラコンポリスで発見された儀礼用鉾(メイスヘッド)にサソリの絵と共に描かれた名前のわからないファラオ(スコルピオン)がおり、この二人が同一人物なのかどうかは不明である。さらに、マネトによればエジプトを統一したのはメネスであるとしており、ナルメルやスコルピオンとメネスが同一人物なのかどうかについても結論が出ていない。 ナルメルの後継者として次の王となったのが王妃ネイトへテプ(英語版)との間に設けたとされるホル・アハで、上下エジプトの統一王名(ネブティ名)として「メン」という名を持っている。「メン」は「樹立された」を意味する言葉で、彼の建設した首都メンフィスにもその名を見ることができる。また、マネトの言う最初の統一王朝の王「メネス」とも通じることからホル・アハをメネスであるとする研究者も多い。 ホル・アハの後継となったジェル(アトティス)の治世は、57年の長きに渡っているとされ、アビドスに作られたジェルの墓の周辺には300人以上の家臣の殉葬墓がある。その後はジェト(ワジ)が統治したとされるが、ジェルの王妃メルネイトは、アビドスの墓の調査などからジェルとジェトの統治期間の間に単独または短期間の摂政政治を行った可能性が指摘されている。ただし、マネトは女性が王位に就くことが認められたのは第2王朝のニネチェルの時代以降であるとしている。 デンの時代には出土した象牙ラベルに「初めて東を懲らしめる」と記されており、アジア人との接触が確認できる。アネジブ(ミエビドス)の時代には王家は南北に分かれて大きく争った。その後争いはおさまり、セメルケトの治世に入るが、サッカラにあるテンロイの墓から出土した王名表(サッカラ王名表)にはその名が載せられておらず、いくつかの出土品からアネジブの名を抹消していることなどから、セメルケトは王位の簒奪者であったとする説もある。 第1王朝の最後の王はカアであるが、マネトはその名をビエネケスとしており、その他にも統治を行った王が存在する可能性もある。 マネトは第2王朝は9人の王によって302年間統治されたとしている。しかし、現存する他の史料や文献などから多くても第2王朝の王は6人、統治期間は200年弱であるというのが一般的な見解となっている。ヘテプセケムイ、ラネブ、ニネチェルの統治についてはほとんど知られていない。 6番目にセケムイブという名で即位したセト・ペルイブセンの時代には南北の勢力争いが再び激化し、内乱の時代となったとされている。これはホルスとセトの神話的対立の名の下に起こった争いで、セケムイブはセト派に肩入れし、そのホルス名をセト・ペルイブセンに改め、国家規模でホルス神信仰からセト神信仰への改宗が行われた。 第2王朝最後の王であったカセケムイの前に、カセケムという名の王がいたとする場合もある。一方でこの二人は同一人物でセト・ペルイブセンの時代に乱れた国土を統一したカセケムが「二つの力強いものの出現」を意味するカセケムイへと名を変えたとする説もある。 王朝名在位(年)王名(英字表記)即位名黎明期 ? スコルピオン1世(Scorpion) - ? イリホル(Iry-Hor) イリホル ? カー(Ka) カー 前3150 - 3125年頃 スコルピオン2世(Scorpion II) - 第1王朝 前3125 - 3062年頃 ナルメル(Narmer) ナルメル(ホルス名) 前3062 - 3000年頃 ホル・アハ(Hor-Aha) ホル・アハ(ホルス名) 前3000 - 2999年頃 ジェル(Djer) ジェル(ホルス名) 前2999 - 2977年頃 ジェト(Djet) ジェト(ホルス名) 前2977 - 2951年頃 デン(Den) デン(ホルス名) 前2951 - 2925年頃 アネジイブ(Anedjib) アネジブ(ホルス名) 前2925 - 2916年頃 セメルケト(Semerkhet) セメルケト(ホルス名) 前2916 - 2890年頃 カア(Qa'a) カア(ホルス名) 第2王朝 前2890 - 2847年頃 ヘテプセケメイ(Hotepsekhemwy) ヘテプセケムイ(ホルス名) 前2847 - 2808年頃 ラーネブ(Raneb) ラーネブ(ホルス名) 前2808 - 2761年頃 ニネチェル(Nynetjer) ニネチェル(ホルス名) 前2761 - 2753年頃 ウェネグ(Weneg) - 前2753 - 2733年頃 セネド(Senedj) - 前2733 - 2716年頃 セト・ペルイブセン(Seth-Peribsen) セケムイブ(ホルス名) 前2716年頃 セケムイブ・ペルエンマート(Sekhemib-Perenmaat) - 前2716 - 2686年頃 カセケムイ(Khasekhemwy) カセケム(ホルス名)
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