初期王朝時代とは? わかりやすく解説

初期王朝時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 21:59 UTC 版)

エジプトの歴史」の記事における「初期王朝時代」の解説

詳細は「エジプト初期王朝時代」を参照4千年紀末頃からエジプトではおぼろげながら文字史料によって歴史復元できるようになる後世エジプト伝説では、初め上下エジプト統合しエジプト統一王朝築いた王はメネス(メニ)である。一方で考古学的見地から統一王朝最古の王である可能性が高いと見られるのはナルメル王である。ナルメル興したとされる王朝エジプト第1王朝とし、以降時代は第31までの番号分類される歴代の王朝の歴史として整理されている。ただし、実際にエジプトの「最初の王」が誰であったのかについては今なお定説があるわけではない伝説メネス王を第1王朝の王のいずれかの王と同定しようとする試み続けられており、あるいはメネスは初期王朝時代の複数の王の記憶習合によって誕生したのであるかもしれない。 初期王朝時代の間に(後世伝説によれば第1王朝)の時代に、上エジプト下エジプト結節点にあたる土地にイネブ・ヘジ(白い壁)と呼ばれる都市建設された。この都市は後にメンフィス呼ばれるようになり、古代エジプト時代通じてエジプト中心的都市1つとなった。この都市建設されプタハ大神殿の名称、フゥト・カ・プタハ(プタハ神魂の家)は、後にギリシア語アイギュプトス(Aigyuptos)と訛り今日エジプトEgypt)の語源となったとする説もある。また、エジプトの王たちは王権の確立に力を注ぎ、公式に用い王名確立ホルス名)や、古代エジプト時代地方行政区分であるノモス(セパト)の萌芽ともいえるシステム整備されと見られるなど、後の古代エジプト世界基本的要素形成された。

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初期王朝時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 14:05 UTC 版)

シュメール」の記事における「初期王朝時代」の解説

初期王朝時代のシュメールは各都市国家覇権争った時代である。この時代について伝えているのは『シュメール王朝表シュメール王名表)』と呼ばれる文書群である。これは南部メソポタミアでもっとも強力だった歴代諸王朝・諸王統治年数羅列されている文書である。非常に伝説的色彩が強い文書であるが、シュメール都市国家歴史について情報引き出すことができる。 『シュメール王朝表によればシュメール南部都市エリドゥ初め王権成立し王権天から降り)た。次いでバド・ティビラ、ララク、ジムビル、シュルッパク順次王権移っていったと言う。これらの都市の王たちには数万年に及ぶ在位期間設定されているなど神話的な伝承となっている。そして伝説的な大洪水があったとされ、『シュメール王朝表』では歴史洪水以前以後分けられている。 『シュメール王朝表によれば洪水」のあとに最初に王権があったのはキシュキシュ第1王朝)であり、ついでウルクウルク第1王朝)に王権が遷ったという。キシュウルク初期の王たちは後世メソポタミア尊崇対象となり各種伝説残されている人物も多い。キシュ王朝事実上創始者位置づけられているエタナや、ウルクの王エンメルカルルガルバンダ、そして古代メソポタミアにおいてもっとも有名な英雄であるギルガメシュビルガメシュ)などが代表的である。 『シュメール王朝表』は非現実的な王の在位年数や、実際に同時代並立していたと考えられる王朝縦列繋ぎ順番交代した形で叙述するなど、その内容そのまま史実として受け取れるものではない。同時代史料によってより実際的な歴史復元できるようになるのは前2500年ごろ以降、初期王朝時代の末期からである。都市国家ラガシュ発見され一連の碑文によってこの時代都市国家相互争い一端伺い知ることができる。ラガシュ長らく隣接する都市国家ウンマとの間で境界めぐって戦っており、ラガシュの王たちは過去から続くウンマとの戦い碑文記録した。このラガシュウンマ戦争記録世界でもっとも古い歴史叙述とも評されるこうした都市国家間の覇権争い次第優位となったのはウルクであり、一都市国家超えた領域国家形成し始める。前2400年ごろのウルクエンシャクシュアンナは「国土の王」という新たな称号採用し年名を採用しするなど、シュメール地方全域における権威示している。そしてウルクルガルザゲシ在位:前24世紀ごろ)がシュメール主要都市征服した

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初期王朝時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:54 UTC 版)

サッカラ」の記事における「初期王朝時代」の解説

最古貴族墳墓エジプト第1王朝のもので、サッカラ平原北端にある。このころ王家の墓アビュドスにあったサッカラでの最古の王家の墓はエジプト第2王朝のもので、地下回廊構成されている。第2王朝最後の王カセケムイアビュドス埋葬されたが、大きな矩形囲いから成る埋葬記念碑 Gisr el-Mudir がサッカラ建てられた。これが後の階段ピラミッド複合体取り囲む記念碑的な壁の着想元になったと見られている。ジェセル王の複合埋葬施設イムホテプ建設したもので、多数ダミー建物付属しており、二次的なマスタバもある。フランス人建築家エジプト学者の Jean-Philippe Lauer は、このジェセルピラミッド複合体発掘と復元生涯大部分捧げた

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初期王朝時代(第1 - 2王朝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 05:13 UTC 版)

古代エジプト」の記事における「初期王朝時代(第1 - 2王朝)」の解説

紀元前3150年頃上エジプトナルメル王下エジプト軍事的に征服し上下エジプト統一してエジプト第1王朝開いたとされる従来エジプト第1王朝建国者とされてきたメネス王がナルメル王にあたるのか、それとも別の王に比定されるのかについては諸説ある。また、ナルメル上下エジプト王として確認される最古の王であるが、ナルメル王よりも古い上下エジプトの王がいた可能性もある。ヘロドトスによれば第1王朝期に上下エジプト境界地域首都としてメン・ネフェル(メンフィス)が築かれたとされ、以後第一中間期第8王朝にいたるまでエジプトの各王朝はここに都した。エジプト第1王朝紀元前2890年頃王統交代によってエジプト第2王朝となった。この初期王朝時代の2王朝については資料少なく不明な点も多い。

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初期王朝時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 06:54 UTC 版)

ファラオの一覧」の記事における「初期王朝時代」の解説

初期王朝時代は黎明期呼ばれる紀元前3150年から3050年頃までの第1王朝以前と、第2王朝が終わる紀元前2686年頃までの二つ分けることができる。黎明期先王朝時代の各王朝紀元前5000年頃から興った上下エジプト王朝)を統一した年代とされており、一般にナルメルがその創始者であるとされるまた、別の王として上エジプトのヒエラコンポリスで発見され儀礼用鉾(メイスヘッド)にサソリの絵と共に描かれた名前のわからないファラオスコルピオン)がおり、この二人同一人物なのかどうか不明である。さらに、マネトによればエジプト統一したのはメネスであるとしており、ナルメルスコルピオンメネス同一人物なのかどうかについても結論出ていない。 ナルメル後継者として次のとなったのが王妃ネイトへテプ(英語版)との間に設けたとされるホル・アハで、上下エジプト統一王名ネブティ名)として「メン」という名を持っている。「メン」は「樹立された」を意味する言葉で、彼の建設した首都メンフィスにもその名を見ることができる。また、マネトの言う最初統一王朝の王「メネス」とも通じることからホル・アハメネスであるとする研究者も多い。 ホル・アハ後継となったジェル(アトティス)の治世は、57年長き渡っているとされ、アビドス作られジェルの墓の周辺には300人以上の家臣殉葬墓がある。その後ジェトワジ)が統治したとされるが、ジェル王妃メルネイトは、アビドスの墓の調査などからジェルジェト統治期間の間に単独または短期間摂政政治行った可能性指摘されている。ただし、マネト女性王位に就くことが認められたのは第2王朝ニネチェル時代以降であるとしている。 デン時代には出土した象牙ラベルに「初めて東を懲らしめる」と記されており、アジア人との接触確認できる。アネジブ(ミエビドス)の時代には王家南北分かれて大きく争ったその後争いおさまりセメルケト治世に入るが、サッカラにあるテンロイの墓から出土した王名表サッカラ王名表)にはその名が載せられておらず、いくつかの出土品からアネジブの名を抹消していることなどから、セメルケト王位簒奪者であったとする説もある。 第1王朝最後の王カアであるが、マネトはその名をビエネケスとしており、その他に統治行った王が存在する可能性もある。 マネト第2王朝は9人の王によって302年統治されたとしている。しかし、現存する他の史料文献などから多くて第2王朝の王は6人、統治期間200年弱であるというのが一般的な見解となっている。ヘテプセケムイ、ラネブ、ニネチェル統治についてはほとんど知られていない。 6番目にセケムイブという名で即位したセト・ペルイブセン時代には南北勢力争いが再び激化し内乱の時代となったとされている。これはホルスセト神話的対立の名の下に起こった争いで、セケムイブはセト派に肩入れし、そのホルス名セト・ペルイブセン改め国家規模ホルス神信仰からセト神信仰への改宗が行われた。 第2王朝最後の王であったカセケムイ前にカセケムという名の王がいたとする場合もある。一方でこの二人同一人物セト・ペルイブセン時代乱れた国土統一したカセケムが「二つの力強いものの出現」を意味するカセケムイへと名を変えたとする説もある。 王朝名在位(年)王名英字表記即位名黎明期 ? スコルピオン1世(Scorpion) - ? イリホル(Iry-Hor) イリホル ? カー(Ka) カー3150 - 3125年頃 スコルピオン2世(Scorpion II) - 第1王朝 前3125 - 3062年頃 ナルメル(Narmer) ナルメルホルス名) 前3062 - 3000年ホル・アハ(Hor-Aha) ホル・アハ(ホルス名) 前3000 - 2999年ジェル(Djer) ジェル(ホルス名) 前2999 - 2977年頃 ジェト(Djet) ジェト(ホルス名) 前2977 - 2951年デン(Den) デン(ホルス名) 前2951 - 2925年頃 アネジイブ(Anedjib) アネジブ(ホルス名) 前2925 - 2916年頃 セメルケト(Semerkhet) セメルケト(ホルス名) 前2916 - 2890年頃 カア(Qa'a) カア(ホルス名) 第2王朝 前2890 - 2847年頃 ヘテプセケメイ(Hotepsekhemwy) ヘテプセケムイ(ホルス名) 前2847 - 2808年頃 ラーネブ(Raneb) ラーネブ(ホルス名) 前2808 - 2761年頃 ニネチェル(Nynetjer) ニネチェル(ホルス名) 前2761 - 2753年頃 ウェネグ(Weneg) - 前2753 - 2733年頃 セネドSenedj) - 前2733 - 2716年頃 セト・ペルイブセン(Seth-Peribsen) セケムイブ(ホルス名) 前2716年頃 セケムイブ・ペルエンマート(Sekhemib-Perenmaat) - 前2716 - 2686年頃 カセケムイ(Khasekhemwy) カセケム(ホルス名)

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