ローマ帝国の国教とは? わかりやすく解説

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ローマ帝国の国教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 23:59 UTC 版)

正教会の歴史」の記事における「ローマ帝国の国教」の解説

4世紀ローマ帝国ミラノ勅令キリスト教の信仰公認したキリスト教はさらに国教となり、ローマ多神教にとってかわった当時キリスト教中心は、ラテン語地域ローマギリシア語地域シリアアンティオキアおよびエジプトアレクサンドリアにあったが、新首都コンスタンティノープルコンスタンティノポリスコンスタンディヌーポリ)の教会は、旧首都ローマに次ぐ第二位序列認められた。 キリスト教認めたのちのローマ帝国は、国内安定一体性基盤としての宗教の役割重視し教会一般庇護するとどまらず教会人事教義直接かかわることも多かった帝国分離後東ローマ帝国もこの政策踏襲した一方西ローマ帝国早く滅びその後西欧世界支配したゲルマン系諸部族は必ずしも正統派キリスト教信仰しなかった(アリウス派多かった)ため、西方ラテン語教会国家庇護をほとんど期待することができなかった。西ローマ帝国滅亡後西方世界にも名目上東ローマ帝国皇帝主権及んでいたが、実際統治権が及ぶことはまれであったこのため西ローマ帝国滅亡後ローマ教会の長であるローマ教皇西方世界行政権認められた。このことは、西方教会自立組織化促した一方、のちの東西分裂準備することにもなった。 古代教会にはたびたび教義に関する論争起き歴代皇帝そのつどあるいは二派の融和図り会議招集し、あるいは一方正統とし他方排除する命令出した全教会が召集されるものを全地公会公会議)といい、その決定全教会に適用された。一方地方行われた会議地方公会ないし教会会議といい、その決定はその地方適用された。ただし教義に関する地方公会決定も、基本的に尊重され他の地域受け入れられていったそのような重要な地方公会決定としては、4世紀カルタゴ教会会議における新約聖書範囲確定などがある。 5世紀単性論エジプト中心に盛んになり、アレクサンドリアでは二派がそれぞれ独自に主教擁立する事態至った単性論問題教義論争超え皇帝の側近をもまきこむ教会内の政争発展し、これを収拾するため451年召集されカルケドン公会議(ハリファゲン全地公会)は、単性論異端として退けた。このとき単性論一種と見なされて排斥され合性論者は、己を排斥し両性論者を「メルキテス」(皇帝派)と呼んだ異端として排除され独自の教会をたてた東方の諸教会総称してメルキト派というのはこれに由来するアンティオキアでも合性論教会分立した。これらの分立し教会非カルケドン派正教会とも呼ばれる非カルケドン派正教会は自らの教説あくまでも合性論であるとし、単性論見なされることを誤解不服としている。 正教会メルキト派を自称することはほとんどなかったが、正教会東ローマ帝国国教として栄えていった。その象徴的建造物6世紀コンスタンティノープル建造されアギア・ソフィア大聖堂である。現在でも世界最大級の大きさをもつこの教会には、1453年東ローマ帝国滅亡までコンスタンティノープル総主教庁がおかれた。

※この「ローマ帝国の国教」の解説は、「正教会の歴史」の解説の一部です。
「ローマ帝国の国教」を含む「正教会の歴史」の記事については、「正教会の歴史」の概要を参照ください。

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