ミラノ勅令による公認
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 20:53 UTC 版)
「キリスト教の歴史」の記事における「ミラノ勅令による公認」の解説
数次にわたる迫害にもかかわらずキリスト教の広まりは衰えることなく、4世紀にはキリスト教を公認する国が現れるようになった。アルメニアでは開明者グレゴリオス(英語版)によって国王ティリダテス3世(英語版)がキリスト教に改宗し、アルメニア王国は303年頃に世界で初めて国家としてキリスト教を受容した。350年にはアクスム王国(現在のエチオピア)が国教化された[要出典]。 ローマ帝国ではディオクレティアヌス帝による大迫害(英語版)を継続したガレリウス帝が死を前にして311年に寛容令を出し、313年コンスタンティヌス1世とリキニウス帝によるいわゆるミラノ勅令によって、他の全ての宗教と共に公認された。その後もユリアヌス帝などの抑圧を受けたが、テオドシウス帝は380年にキリスト教をローマ帝国の国教と宣言した。さらに392年に帝国内でのキリスト教以外の宗教およびキリスト教の異端の信仰が禁止され、ローマ帝国唯一の国教としてのキリスト教の地位が確立した。 コンスタンティヌス帝はキリスト教公認後の321年に日曜日強制[要出典]休業令を出した。これによってキリストの復活を記念して祝う日曜日がローマ帝国の定める休日となった。 非公認の宗教としてローマ帝国や民衆から間歇的に迫害されて来たキリスト教は、こうしてその立場が逆転し、国家に保護される側になった。
※この「ミラノ勅令による公認」の解説は、「キリスト教の歴史」の解説の一部です。
「ミラノ勅令による公認」を含む「キリスト教の歴史」の記事については、「キリスト教の歴史」の概要を参照ください。
- ミラノ勅令による公認のページへのリンク