ローマ帝国の東西分割とクレタ島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:50 UTC 版)
「クレタ島の歴史」の記事における「ローマ帝国の東西分割とクレタ島」の解説
詳細は「ビザンツ帝国領クレタ」を参照 安定していたローマ帝国は3世紀の危機と呼ばれる軍人皇帝たちの時代を経て、ディオクレティアヌス帝(在位:284年-305年)によって混乱が収拾され再編された。ディオクレティアヌスは即位した翌年には同僚のマクシミアヌスをカエサル(副帝)とし、286年には彼をアウグストゥス(正帝)としてローマ帝権を分割した。その後、ローマ帝国の防衛を行う任務が2名ではこなしきれないことを悟ったディオクレティアヌスは293年にはさらに二人のカエサル(副帝)を任命し、4人の皇帝による帝国の統治体制(テトラルキア)を構築した。並行して行政機構の再編も行われ、クレタ島は298年にキュレナイカと分離され単独の属州となった。更に290年代に属州の上位区分である管区(dioecesis、ディオエケシス)が創設されると、クレタ属州はモエシア管区の所属とされた。次いでコンスタンティヌス1世(大帝、在位:306年-337年)がより上位の道(praefectura、プラエフェクトゥラ)を設置すると、クレタはイリュリクム道の下に入り、4世紀後半にはイリュリクム道のマケドニア管区(モエシア管区の分割により成立)に属していた。 西暦395年の最後のローマ帝国の東西分割の際、最終的に399年までにイリュリクム道の中央部を東西に分割する形で両帝国の境界が確定したため、クレタ属州は東帝国の管轄となった。東ローマ帝国は首都コンスタンティノープル(ビュザンティウム)を中心とした帝国へと収斂していくため、一般にビザンツ帝国と呼ばれる。 クレタ島はゲルマン人の移動や内乱、都市と農村の荒廃といった古代末期にローマ帝国を襲った数々の被害とは無縁であった。年代記作家や歴史家たちは古代末期以降、ビザンツ帝国時代のクレタ島に滅多に言及せず、当時のクレタ島の状況を伝える史料はほとんど存在しない。365年にクレタ島を襲い甚大な被害を出した大地震、ユスティニアヌス1世帝(在位:527年-565年)時代の4つの軍管区の設置、732年のレオン3世(在位:717年-741年)による人頭税の増額、コンスタンティノス5世(在位:741年-775年)がこの島で徴兵した兵士を自分の部隊に組み込んだことなどが断片的に知られている。732年、レオン3世は聖像破壊論争の中で、クレタ島の管轄をローマ教皇庁からコンスタンティノープル総主教庁に移し、以降クレタ島のキリスト教は正教会と運命を共にした。しかし、当時のクレタ島は大主教1名、主教11名を擁していたが、彼らはビザンツ帝国の公会議において大きな役割は果たしていない。芸術はビザンツ帝国で進展していた傾向と流れを一にしていたと見られるが、9世紀以前の時代のものはほとんど残されていない。
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