ローマ帝国の浴場文化の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 05:43 UTC 版)
「古代ローマの公衆浴場」の記事における「ローマ帝国の浴場文化の終焉」の解説
古代ローマ帝国において、様々な属州に公衆浴場は造られた。しかし、古代末期のゲルマン民族の侵入による西ローマ帝国の崩壊などの混乱による都市の破壊・衰退とともに公衆浴場も維持できなくなり、放棄されていった。5世紀に崩壊した西ローマ帝国と違って存続に成功した東ローマ帝国では、比較的遅い時期まで公衆浴場が維持されており、首都コンスタンティノープルにあったゼウクシッポス浴場(英語版)は、6世紀・ユスティニアヌス1世の時代のニカの乱で焼け落ちた後にも再建されたことが記録されているが、626年にはコンスタンティノープルの水道設備がアヴァール人に破壊され、8世紀には浴場の装飾も剥ぎ取られ、兵舎や牢獄に転用されてしまった。10世紀の『コンスタンティノープル史跡案内』には、「この浴場の水と空気はガラスのランプで魔法のように熱せられていたが、心ない人が来て壊してしまった」と記されている。小アジアのエフェソスでは、7世紀のサーサーン朝ついでイスラム帝国の侵入による混乱で公衆浴場も破壊されてしまった。こうして、ローマ帝国の各地に存在した公衆浴場は廃墟と化していった。
※この「ローマ帝国の浴場文化の終焉」の解説は、「古代ローマの公衆浴場」の解説の一部です。
「ローマ帝国の浴場文化の終焉」を含む「古代ローマの公衆浴場」の記事については、「古代ローマの公衆浴場」の概要を参照ください。
- ローマ帝国の浴場文化の終焉のページへのリンク