ゲルマン民族の侵入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 15:18 UTC 版)
帝政以前より、北方のゲルマン民族の存在は国土防衛における大きな難題であった。しかし2世紀後半からの人口の増大・気候の寒冷化による居住環境の悪化・食料の欠乏などの要因により国境侵犯が激増し、3世紀に入るとかつてないほどの大規模な侵入が始まることとなる。雪崩をうつようなゲルマン人の侵入は、ガリア・イリリクム・ダキア・トラキアなどといった北方国境のほぼ全域に渡って起こり、その防衛線はあまりにも長大な範囲に及ぶため、最強の名をほしいままにしたさしものローマ軍団でも到底対応ができず、国境線を破った蛮族が帝国各地を荒らし回った。 ローマ側も手をこまねいて見ていたわけではなく、たびたび皇帝も前線に立ったもののあまりに膨大な数の敵に苦戦し、251年のアブリットゥスの戦いではゴート族の罠にかかったデキウス帝と共同皇帝のヘレンニウス・エトルスクス帝が共に戦死するという屈辱的な敗北を喫した。さらに件のエデッサの戦いで皇帝がペルシアの捕虜となると国境侵犯は一層激しさを増し、防衛の要であったリメスを捨てることまで余儀なくされた。ゴート族やアラマンニ族は一時はアルプスを超えて北部イタリアにまで迫り、また黒海経由で海に出たゴート族は小アジアやギリシアの都市も襲撃し、従来蛮族の侵入とは無縁と思われていたこれらの都市も甚大な被害を被った。 しかし押される一方だったローマ軍も主戦力をゲルマン風に騎兵に改めるなど軍の構造改革を押し進め、268年(または269年)のナイススの戦いの大勝を機に戦勝を続けて軍事的優位を取り戻し、以後はゲルマン人の侵入もひとまずは退潮傾向となる。
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