首都の衰退とテトラルキア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 20:17 UTC 版)
「ローマ建築」の記事における「首都の衰退とテトラルキア」の解説
すでに五賢帝の時代からローマ帝国は衰退をはじめており、特に国境防衛力の弱体化は、マルクス・アントニヌス帝の時代に顕著となった。さらにセウェルス朝以降になると、東方ではサーサーン朝の、北方ではゲルマン民族の侵入が繰り返されるようになり、デキウス帝はゴート族との戦いで敗死し、ウァレリアヌス帝はサーサーン朝に破れて捕らえられるなどの危機的状況を迎えたため、軍事力の強化は帝国の第一の課題となった。パルミラ帝国とガリア帝国を平定したアウレリアヌス帝は、北方蛮族の脅威に対して、失われて久しかったローマの市壁を復活させた。彼の時代には、ローマ市にそれほど差し迫った危険性はなかったものの、市壁が建設されたという事実そのものが、帝国の現状を象徴する出来事であった。 このような事態をもたらした3世紀の危機の時代は、ディオクレティアヌス帝が四分治制(テトラルキア)と呼ばれる統治方法を構築して一時的に収束する。ディオクレティアヌスをはじめとする四人の皇帝は、それぞれ活動の拠点を地方都市に移したが、その結果、ローマ市は名目では首都であり続けたものの、実質的にローマの中心地ではなくなった。テトラルキアによって建設された四つの首都の構造は、断片的な情報しかないものの、ローマの構成を模倣したものであったことが知られている。ローマ市が、キルクス・マキシムスを見下ろす位置にドムス・アウグスターナ(皇帝宮殿)を配置しているように、これらの首都においても皇帝宮殿の側に大競馬場が建設された。これは後にローマ帝国の首都となるコンスタンティノポリスにおいても繰り返された。このうち、最も多くの遺跡を見ることができるのは、コンスタンティヌス1世の本拠地であったアウグスタ・トレウェノルム(現トリアー)で、コンスタンティヌスの浴場や、現在ではバシリカとして知られる皇帝謁見室などが残る。それ以外の都市の遺跡はほとんどないが、ローマン・コンクリートによる独創的な造形が採用されていたと考えられる。同時にまた、都市は強固な市壁によって防衛されており、その堅牢さはトレウェノルムのポルタ・ニグラから窺うことができる。テトラルキアの首都ではないが、305年に、ディオクレティアヌスが隠棲するため建設したスパラトゥム(現スプリト)の大邸宅も、やはり軍事的な側面が色濃く、高い城壁と見張り塔によって防衛された閉鎖性の強いものであった。内部の意匠はオーダーとアーチを繰り返し、コロッセウムなどの伝統的な手法を踏襲しているものの、持ち送りやエンタブラチュアにアーチを挿入する手法などは、シリア特有の意匠で構成されている。 ローマ建築はヘレニズムに由来する伝統的造形に固執し続け、これはローマ市において特に顕著で、クリア(元老院)などの伝統的な建築物のほか、ディオクレティアヌス帝によって建設されたディオクレティアヌス浴場やコンスタンティヌスの凱旋門においてなお健在であったが、後期のローマ建築は、概してローマン・コンクリートによる自由な造形を特徴とする。トレウェロムやスプリトだけでなく、ローマにおいてさえ、マクセンティウスのバシリカやキルクスなど、ローマン・コンクリートによる革新的な造形の建築物が建設された。ミネルウァ・メディカの神殿と呼ばれている、リキニウスによる宮殿庭園のパヴィリオンは、パンテオンと同じく円形平面でドームを頂く建築であるが、内部はパンテオンのような厳格・静謐なものではなく、大きな開口部と壁面に半円アーチのニッチを有する動的なものとなっている。ドームの構築に対する技術もパンテオンから大きく進歩しており、素焼きの陶器を埋め込んで軽量化するとともに、フォルム・ロマヌムのロムルス神殿などでは曲率の異なる二重ドームを架ける工法が確立された。
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