首都への編入とバージニア州への返還
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「アーリントン郡 (バージニア州)」の記事における「首都への編入とバージニア州への返還」の解説
バージニア植民地時代には、この地域はフェアファックス郡の一部であったが、アメリカ独立後、新しい連邦政府からバージニア州に対し権利が認められた。1791年、連邦議会は合衆国の首都となるべき連邦直轄地の範囲を、一辺10マイル(16.1km)四方の正方形と定めた。これは、合衆国憲法1条8節によって認められた最大限の面積であった。しかし、この境界を定めた法律(1790年合衆国首都設置法に対する改正法)では、ポトマック川のメリーランド州側(東側)以外で公共の建物を建てることを禁じていた。 1791年から1792年にかけて、アンドリュー・エリコット率いる調査チームによって、連邦直轄地の境界線が定められた。このチームは、境界線に沿って、およそ1マイルおきに合計40個の境界石を設置した。そのうち14個がバージニア側に置かれ、その多くが現在も残っている。 連邦議会は、1801年にコロンビア特別区へ移転した際、コロンビア特別区基本法を制定し、特別区を、(1)ポトマック川東岸のワシントン郡と(2)西岸のアレクサンドリア郡に分けた。アレクサンドリア郡には、当時は大部分田舎であった現在のアーリントン郡と、ポトマック川に面した港町であるアレクサンドリア町(現在のアレクサンドリアの南東部であり、現在「オールドタウン」と呼ばれる)が含まれていた。 アレクサンドリア郡の住民は、連邦の首都が置かれることによって土地が購入され、商業が発展するものと期待していた。ところが、実際にはアレクサンドリア郡は、首都ワシントン市に隣接する港町でありワシントン郡の一部であったジョージタウンと競合する立場に置かれた。 連邦政府がアレクサンドリア郡内に事務所を設置することができなかった上、経済的に重要な意味を持つチェサピーク・オハイオ運河がポトマック川の北側を流れていることもジョージタウンに有利であったことから、アレクサンドリア郡の経済は停滞した。連邦政府によってアレクサンドリア運河が設営されることとなり、ジョージタウンの一部住民はこれに反対したが、結局チェサピーク・オハイオ運河とアレクサンドリア港が結ばれた。また、アレクサンドリア郡の住民は、コロンビア特別区の市民となったことによって連邦議会への代表を有しないことになった。 アレクサンドリア町は、当時、奴隷貿易の港、市場であった。しかし首都では奴隷制度廃止運動が高揚し、アレクサンドリア住民は、連邦政府が奴隷制度を禁止することになれば地域経済が打撃を受けることを恐れた。同時に、バージニア州の中でも奴隷制度廃止運動が巻き起こり、この問題をめぐって州議会は二分された(後に、南北戦争中にバージニア州が奴隷制度を肯定する決断を下したことにより、奴隷制度に反対する郡によってウェストバージニア州が生まれることになった)。奴隷制度賛成派のバージニア州民は、アレクサンドリア郡がバージニア州に返還されれば、州議会で賛成派の議席が二つ増えるであろうと考えた。 主にこうした事情によって、アレクサンドリア郡をコロンビア特別区から分離しようとする運動が盛り上がった。レファレンダム(住民投票)を経て、アレクサンドリア郡の住民は、連邦議会及びバージニア州議会に対し、郡のバージニア州への返還を陳情した。その結果、1846年7月9日にアレクサンドリア郡はバージニア州へ返還された。 1852年、アレクサンドリア郡の中から、アレクサンドリアの町が独立市として独立、自治体化することになった。その結果、隣り合った郡と市がいずれも「アレクサンドリア」という名称を使っていることになり、混乱が生じた。これを受けて、1920年、アレクサンドリア郡はアーリントン郡と改名した。
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