アメリカ独立後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 00:55 UTC 版)
ベアリングス銀行は、早い段階でアメリカの将来性に目をつけてアメリカ進出を行った。とりわけ初代アシュバートン卿がベアリングス銀行の経営を主導するようになるとそれが強力に推し進められるようになった。ベアリングス銀行は建国されたばかりのアメリカ合衆国のロンドンにおける代理人となり、1803年にはアメリカがフランスからルイジアナを買収できるよう取り計らい、その代金であるアメリカ政府債の発行の引受を行っている。 18世紀末から19世紀初頭の戦争(フランス革命戦争・ナポレオン戦争)も大きなビジネスチャンスとなり、この戦争でベアリングス銀行はイギリス戦時公債の最大の引受会社となり、また戦後もフランスの賠償金の公債の引受を行った。フランス復古王政の宰相である第5代リシュリュー公爵アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシはこの頃のベアリングス銀行の繁栄を指して「ヨーロッパには6つの強国がある。イギリス、フランス、プロイセン、オーストリア、ロシア、そしてベアリング・ブラザーズだ」と評している。 1828年にはアメリカ人銀行家ジョシュア・ベイツ(英語版)(1788-1866)がベアリング家以外から初めてパートナーに就任し、アメリカでのビジネスの更なる拡大がはかられた。彼の主導のもとベアリングス銀行は1840年代のアメリカのテキサス、ニューメキシコ、アッパー・カルフォルニアのメキシコからの買収に大きく関与した。またベイツはフランス皇帝ナポレオン3世と個人的に関係が深く、ナポレオン3世やベルギー国王レオポルド1世、フランス貴族(ユルトラ・亡命貴族)などから預金口座を預かった。 1830年の初代アシュバートン卿の引退後、その甥トマス・ベアリング(英語版)(1799-1873)がベアリングス銀行の経営を主導するようになった。貿易で利益を上げ続け、ボストンで広東の茶を手に入れるにはマセソンかベアリングの信用が必要不可欠と言われた。19世紀中期には自社のために投資(後に『自己勘定による取引』と名付けられた取引方法)するほど資産が豊かとなり、イギリス、ロシア、オーストリアの株式やパナマ運河の債権、アメリカ鉄道株への投資も始めた。 ベアリングス銀行が1860年から1890年までにアメリカ・カナダに行った融資額は5億ドルに達した。19世紀中にはベアリングス銀行は英国マーチャントバンク界においてN・M・ロスチャイルド&サンズと双璧する存在となり、世紀の終わりには英国王室御用達となって「女王陛下の銀行」the "Queen's Bank" とまで称された。 1873年のトマスの死後、従兄弟の初代レヴェルストーク男爵エドワード・ベアリング(1828-1897)が経営を主導した。彼はベアリングス銀行の南米進出を押し進めたが、1890年にアルゼンチンで革命と利払い不能があり、それによって800万ポンドの損失を出した。イングランド銀行やライバル銀行から救済を受けて経営破綻を免れたが、この際にイングランド銀行理事の勧告を受け入れる形でベアリングス銀行は株式会社に転換されている。株はベアリング家で持ちあった。 19世紀末から20世紀初頭にかけては業績を回復させ、特にアメリカビジネスで大きな成功を収めた。またロシア、カナダ、ベルギー、トルコ、日本、清などと関係を深めた。日本との関係では1902年の鉄道建設費の調達や1905年の日露戦争の戦費調達にベアリングス銀行が大きく貢献している。
※この「アメリカ独立後」の解説は、「ベアリングス銀行」の解説の一部です。
「アメリカ独立後」を含む「ベアリングス銀行」の記事については、「ベアリングス銀行」の概要を参照ください。
- アメリカ独立後のページへのリンク