アメリカ独立•フランス革命
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イギリスはフレンチ・インディアン戦争(1755年 - 1763年)の結果増大した英領アメリカ植民地の警備経費捻出のため1764年に砂糖法、翌年に印紙法を、1767年にはタウンゼンド諸法を制定し、植民地からの税収増を図ったが植民地での反対運動により廃止された。1773年に茶法が成立するとボストン茶会事件が発生した。1774年の大陸会議宣言と決議第4項はイギリスの植民地立法を否定するもので、イギリスは武力弾圧を開始し、アメリカ独立戦争(1775-1783)へと発展していった。アメリカ独立宣言ではイギリスの権利章典よりも自然権思想が鮮明に出され、人民の契約による国家は、人民の所有・生命・自由・財産を守ることを目的とし、国家の課税権も国民の同意な意思に租税を徴収することは私有財産の法則を侵害し、国家の目的に反すると考えられた。ここでは国家の目的が財産権を含む所有の保障にあった。独立戦争では、租税法律主義に由来する「代表なくして課税なし」という有名なスローガンも生まれ、植民地への課税は植民地議会によってなされねばならないと考えられた。 封建末期の貴族たちは商人たちから借金を重ねていたため、遂に徴税権を商人たちに売渡す。この商人たちは租税の代徴を行う徴税請負人として人々から税を徴収したが、増益分は自らの懐に入るため、過剰な租税の取り立てが行われた。このため人々の租税に対する不満が高まっていく。特に18世紀のフランスのアンシャン・レジームの下では、3つの身分のうち、第一身分(聖職者)・第二身分(貴族)は免税の特権を持っていたが、第三身分(平民)は納税義務を課せられていた。しかも第三身分は国政に参加できなかった。1786年、国王と財務総監カロンヌは財政窮乏を打開するため補助地租税を全国民に課税したが、これに名士会と高等法院が旧来の免税特権をもって反対し、1789年5月5日に三部会が開かれることとなった。第三身分は三部会での議員数倍化を要求したが形だけであったことに反発し、国民議会を会合し、ここで議会の承認なしの課税の即時中止を求める決議を行った。8月に憲法制定国民議会が人間と市民の権利の宣言を採択した。第13条で「公の武力の維持および行政の支出のために、共同の租税が不可欠である。共同の租税は、すべての市民の間で、その能力に応じて、平等に分担されなければならない」、第14条で「すべての市民は、みずから、またはその代表者によって、公の租税の必要性を確認し、それを自由に承認し、その使途を追跡し、かつその数額、基礎、取立て、および期間を決定する権利をもつ」と規定された。英米では課税権と財産権は明確に区別されたが、フランス人権宣言では「財政なければ国家なし」の原則、つまり課税権の行使は必要不可欠であることが先の13条で規定され、次いで14条でアメリカ独立戦争のスローガン同様に「代表なければ課税なし」の原則が規定された。こうしてヨーロッパの近世市民社会形成期において課税権は国王から国民の総意の代表である議会に移し、そして国民の財産権の保証が図られた。 こうして確立していった租税法律主義では、自由権をもとにした私有財産権を国家権力から守ることが最も重要な機能となった。私有財産権が保護されることで、納税が国民自身の利益になるのであり、こうして国民が国家から受ける利益と負担する租税との対価関係が前提とされるようになった。これは租税交換説また租税利益説と呼ばれる。租税は国家の保護に対して支払われるべき価格とみなす租税利益説はグロチウス,ホッブズ,ジョン・ロック,ヒューム,ルソーらによって提唱されたものだった。
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