アメリカ独立宣言と州法の制定
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「アメリカ独立宣言と州法の制定」の解説
「アメリカ独立宣言」および「州の憲法 (アメリカ合衆国)」も参照 1776年6月7日、ヴァージニア植民地代表のリチャード・ヘンリー・リーは大陸会議に「独立の決議」を提案し、同年6月10日にはこれにもとづいてトマス・ジェファーソン、ジョン・アダムズ、ベンジャミン・フランクリン、ロジャー・シャーマン、ロバート・リビングストンの5名で構成される独立宣言起草委員会(五人委員会)が発足した。起草の中心となったのはアダムズ委員の強い推薦を受けたジェファーソンで、フランクリンとアダムズがこれをわずかに修正して委員会案とした。7月1日、リーの独立決議案に9植民地が賛意を表明し、翌2日にはサウスカロライナ、デラウェア、ペンシルヴェニアが賛成にまわり、ニューヨーク植民地を除く12植民地で独立が正式に決定した。一方、アメリカ独立宣言委員会案は7月4日に大陸会議における若干の修正を経たうえで正式に採択された。7月9日、植民地政府からの訓令で独立への賛成を禁じられていたニューヨークが賛成したことから、独立宣言には「全会一致の」という言葉を付加することが可能となった。アダムズはのちにこれを回顧して「13の時計が同時に鳴った」と形容しており、政治・宗教・習慣も相互に異なる13植民地がイギリス帝国からの独立を連帯して決定したことを、人類史上の快挙とみなしていた。 独立宣言は、基本的人権や革命権の主張を述べた前文、国王ジョージ3世の暴政28か条と本国議会・本国人への非難を述べた本文、檄文の意味も込めて独立を宣言した後文、の3部分から構成されており、このうち特に「すべての人間は平等に造られている」ことを高らかに唱え、不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げた前文がアメリカ独立革命の理論的根拠を要約した部分として、著名である。独立宣言では、自然権の究極的な賦与者として「自然の神」という非聖書的な言葉が選ばれており、ここでは限定の少ない万人向けの信仰表現として理神論的な神が含意され、この表現を受け入れることのできないキリスト教徒は少なかっただろうと考えられる。いずれにせよ、「奪いがたい権利」を「神」が与えたと明示したことによって神は人間の権利の創造主であるとみなされ、それゆえ人間の権利は奪いがたく「神聖」なものとなったのである。また、ここにおける自然法理論が名誉革命を思想的に正当化したジョン・ロックの自然法理論から強い影響を受けたことも、よく知られている。ロックにあっては、個人の権利の内容は「生命、自由、財産」であったが、ジェファーソンが「財産」の部分を「幸福の追求」に変更したことにより、独立宣言は財産権にとどまらない時代を超える意味と価値を付与されたと評しうるのである。ただし、この宣言では奴隷解放論者であるジェファーソンが法文の原案に盛り込んだ奴隷売買に関する厳しい禁止規定が最終的には取り除かれており、暗い現実との乖離もみられる。 ヴァージニア権利章典やアメリカ独立宣言の制定過程のなかで、各邦においても州憲法の制定が始まった。実際的に自治領植民地であったロードアイランド邦とコネチカット邦を除く11の邦では憲法があらたに制定された。成文憲法は今日ではどこの国家においても当然のように考えられているが、元来は植民地人がイングランド議会の主権を制限するために主張されたものであった。各植民地が独立して州(邦)となって邦政府を樹立しようとしたとき、植民地時代の基本法に基づく邦ごとの統治の伝統やキリスト教信仰に由来する契約観念を背景として憲法を成文化してみずからの拠り所としたもので、いずれの邦にあっても共和政を導入した点ではアメリカ独立は確かに「革命」と称するにふさわしい内実をもっていた。また、いずれの邦でも成文憲法が人民主導によるものであることを明らかにするため、憲法制定会議の召集や起草委員会の設置、住民の批准投票など、各種の制定手続きが周到に用意された。 最古の州(邦)憲法はヴァージニア憲法であるが、ここでは1776年5月に召集された植民地協議会が大陸会議の代表に対する訓令を採択したとき、邦憲法の制定も同時に決議され、ジョージ・メイソンによる権利章典案(上述)に引き続いて邦政府機構案が6月24日に報告された。両者はヴァージニア邦最初の正式な憲法として6月29日に採択されたが、同時に世界初の成文憲法でもあった。ここでは教会と国家の分離を定めており、1776年のデラウェア邦憲法やニュージャージー邦憲法(英語版)でも政教分離が規定され、翌1777年にはノースカロライナ邦とジョージア邦でも適用された。 アメリカ独立革命は、ペンシルヴェニアで実現した内部革命がニューヨーク邦では穏健派によって押しとどめられ、マサチューセッツ邦ではイギリスに対する抗議運動においては急進派であったジョン・アダムズやサミュエル・アダムズが、州憲法のなかでも最も保守的な憲法を制定することに尽力した。ヴァージニアでは権利章典の整備がなされたものの、その適用は白人男子に限定されて黒人奴隷の制度は維持された。このように、アメリカ独立革命は邦(州)によって内容と性格を異にしていた。
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