アメリカ独立戦争での役割
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「サマービル (マサチューセッツ州)」の記事における「アメリカ独立戦争での役割」の解説
サマービルはアメリカ独立戦争でも最初期に敵対行動が起こった場所だった。イギリス兵が植民地の火薬を盗み、それが火薬警鐘と呼ばれる大衆の大きな反抗に繋がったものであり、戦争に結びついていく転換点となった出来事だと考えられている。 1700年代初期に風車として初めて開拓者たちが建設したオールド・パウダー・ハウスは、1747年に火薬庫として使うためにマサチューセッツ湾植民地政府に売却された。ブロードウェイと現在のパウダー・ハウス・スクエアのカレッジ・アベニュー交差点にあり、マサチューセッツの全体で最大の火薬を保管していた。1774年5月にマサチューセッツ軍政府長官となったトマス・ゲイジは、ボストン茶会事件への対応としてイギリスの議会が成立させ、植民地で極度に人気の悪かった耐え難き諸法の執行に当たった。ゲイジは戦争の勃発を避けるためにニューイングランドの倉庫や武器庫から軍需物資を密かに除去するのが最良の方法だと考えた。 1774年9月1日夜明け直後、第4連隊からおよそ260名のイギリス正規兵がジョージ・マディソン中佐の指揮で、密かにボストンからミスティック川を漕ぎ上り、ウィンターヒル近くの上陸点に向かった。そこからはパウダーハウスまで約1マイル (1.6 km) 行軍し、全ての火薬を除去した。部隊の大半は来た道をボストンに戻ったが、小さな集団がケンブリッジに行軍し、ケンブリッジ・コモンから2門の野砲を確保した。この野砲と火薬はボストンからキャッスル島にある当時ウィリアム・アンド・メアリー砦(1779年にインデペンデンス砦と改名された)と呼ばれたイギリス軍基地に移された。 この襲撃に反応して流された噂の中に、血が流されたというものがあり、この警報は田園部を遠くコネチカットの先まで拡がった。愛国者達は戦争が間近に迫っていることを恐れ、直ぐに行動に移った。数千人の民兵がボストンやケンブリッジに向かい始め、暴徒の行動により、ロイヤリストや政府役人はイギリス軍の保護を求めて逃げ出した。この事件は「一発の銃声が世界を変えた」という言葉で有名になった7ヶ月後のレキシントン・コンコードの戦いにとっては「舞台稽古」の役目を果たした。しかし、両者の既に熱くなっていた感情にまさに火を点けたのであり、イギリス軍もアメリカ植民地人の側も然るべき場所に火薬と大砲を確保するようになった。 パウダー・ハウスの襲撃後、植民地人はコンコードに武器弾薬を隠す行動に移った。ゲイジ将軍がそのことを知ると、必要ならば武力で火薬を取り上げることにした。1775年4月18日、イギリス軍がコンコードを目指したことを知ると、ベテランの配達人ポール・リビアが馬を駆ってボストンとコンコードの間の農民や民兵に知らせて回り、その指導者だったサミュエル・アダムズとジョン・ハンコックにも伝えた。その夜、リビアはノースエンドを出発して、チャールズタウンを抜けてイーストサマービルに向かい、そこでワシントン通りに駐在していたイギリス士官2人と遭遇した。彼らは即座にリビアの追跡を始め、リビアは早駆けでブロードウェイを通ってウィンターヒルに向かい、最後はイギリス兵をまいた。リビアの警告で、民兵は戦闘に備えるだけの時間が取れ、独立戦争が始まることになった。 ポール・リビアが騎行を始めた直後、フランシス・スミス中佐と700名のイギリス正規兵がレクミア・スクエア近くに上陸した。満潮に近かったのでイーストケンブリッジは島であり、部隊は湿地を回り込み、「腿の深さ」まである水中を歩いてサマービルに到着した。彼らはおそらくプロスペクト通りからワシントン通りに入り、ユニオン・スクエアを抜けた。 イギリス軍はコンコードで敗れて退却し、ボストンへの帰り道で再度サマービルを通った。ユニオン・スクエアに到着すると、ワシントン通りを通ってプロスペクト・ヒルの麓に達した所で、小競り合いが起こった。一握りの地元民がその日早朝に起こったレキシントンとコンコードでの戦いの噂を聞きつけ、疲れ切って退却するイギリス部隊に不意打ちを掛けた。この小競り合いで、イギリス軍に対して立ち塞がっていた65歳の民兵ジェイムズ・ミラーが命を落とした。ミラーは退却する仲間に「私は年を取りすぎて走れない」と告げた後、13発の銃弾を受けた。 その後9か月間続いたボストン包囲戦の全体で、サマービルは目立つ場所にあった。プロスペクト・ヒルは、大陸軍がボストンの北に敷いた一連の陣地の中央に位置した。その高さと、ボストン市や港を見通せることで、大きな戦略的価値があり、その砦は「シタデル」(要塞)と呼ばれるようになった。当初丁度400名が占領したプロスペクト・ヒルは、バンカーヒルの戦いからイズラエル・パットナム将軍が撤退した後は、アメリカ軍の主要宿営地になった。1776年1月1日、シタデルの上に初めて星条旗が掲げられ、アメリカ国旗が初めて公式に掲揚されたこととなった。
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