アメリカ独立戦争とスタンウィックス砦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:58 UTC 版)
「ローム (ニューヨーク州)」の記事における「アメリカ独立戦争とスタンウィックス砦」の解説
アメリカ独立戦争が勃発した時、大陸軍がスタンウィックス砦を再占領し、再建、改良した。この設備が1777年のサラトガ方面作戦で重要な役割を果たし、「降伏しない砦」として有名になった。ピーター・ガンスボート大佐の指揮下に、パトリオットの民兵、正規兵および同盟オナイダ族インディアンが1777年8月にイギリス軍による長い包囲戦を跳ね返した。イギリス軍はバリー・セントリージャー将軍が指揮するイギリス兵、ドイツ兵、ロイヤリスト、カナダ兵および幾つかのインディアン部族出身の戦士で構成されていた。イギリス軍はこの包囲戦に失敗したことに加え、その近くのオリスカニーで起きた戦闘、ベニントン、サラトガと続いて、北部植民地を奪取しようとしたイギリス軍の協働作戦が潰えた。アメリカ側の成功によりフランスやオランダとの同盟が成立した。 イギリス軍は、アメリカ北部のフロンティアとモホーク川バレー全体で起こった流血の戦闘であるスタンウィックス砦で撃退された後、アメリカ人開拓者に対して大きな敗北となったが、特にシックスネーションズの損失が大きかった。オナイダ族の多くがイギリス軍と同盟したモホーク族やセネカ族など4部族と戦ったので、イロコイ連邦は内戦状態となった。 スタンウィックス砦は、アメリカ側からイギリスのロイヤリスト部隊およびその同盟ハウデノソーニー族に対する攻撃の出発点となった。特に1779年のサリバン遠征はイギリスと同盟したイロコイ族の集落に対する見境のない焦土作戦となった。モホーク族の酋長ジョセフ・ブラントやジョン・バトラーが率いたロイヤリスト非正規兵によるチェリーバレー虐殺のような、フロンティアへの攻撃と残虐行為に対して、ジョージ・ワシントンが報復行動を命じたものだった。サリバン遠征では50近いイロコイ族の村と保管食糧を破壊し、その後の冬にインディアンを飢えさせることになった。イロコイ族の多くが逃げ場を求めてカナダに行った。砦は1781年に最終的に放棄された。 1830年、ローム市はスタンウィックス砦の廃墟の上に発展した。1935年スタンウィックス砦法は、スタンウィックス砦を国定記念碑に指定するものだった。1973年、18世紀の建設と駐屯に関わる歴史的史料に基づき、スタンウィックス砦の再建が始まり、1976年に完工した。2005年7月2日、マリナス・ウィレット・センターが歴史的な場所に開館した。視聴覚プログラムを通じて観光客を案内し、博物館の収集品の保管場所を確保した。
※この「アメリカ独立戦争とスタンウィックス砦」の解説は、「ローム (ニューヨーク州)」の解説の一部です。
「アメリカ独立戦争とスタンウィックス砦」を含む「ローム (ニューヨーク州)」の記事については、「ローム (ニューヨーク州)」の概要を参照ください。
- アメリカ独立戦争とスタンウィックス砦のページへのリンク