アメリカ独立戦争と失われていった独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 06:47 UTC 版)
「イロコイ連邦」の記事における「アメリカ独立戦争と失われていった独立」の解説
アメリカ独立戦争(1775年 - 1783年)に巻き込まれたイロコイ連邦は、イギリス本国(王党派)側に立った陣営と13植民地独立派側に立った陣営に分断されて6部族連合の結束が崩れ、互いに敵として戦い合うことになった(初戦はオリスカニーの戦い)。独立派にとってニューヨーク邦内のイロコイとの戦いは、イギリス側に立つ先住民勢力の制圧という当面目標の達成のみにとどまらず、イロコイの抵抗力を取り除いてその土地を獲得するという長期目標を叶える機会でもあった。 独立戦争が始まるとイロコイ連邦は、イギリス側と独立派の双方から交渉を持ち掛けられて駆け引きの対象となり、注目を受けた。そして、戦闘へ参加するイロコイの集団も現れる。 詳細は「カナダ侵攻作戦#背景」、「カナダ侵攻作戦#モントゴメリー遠征隊」、および「シーダーズの戦い」を参照 イングランド国教会の信徒であったジョゼフ・ブラントからの説得を受け入れたモホーク族に、「伝統宗教」的立場をとったセネカ族はイギリス側の陣営として立ち、局外中立を当初目指したオノンダーガ族およびカユーガ族も独立派に襲撃を受けるとイギリス側への協力に回った。プロテスタントの信徒が多かったオナイダ族のほか、タスカローラ族は独立派側の陣営として立った。 モホーク族戦士の長ジョゼフ・ブラントとイギリスの共同部隊は、ゲリラ戦を仕掛けて独立派集落に襲撃を繰り返し、独立派に打撃と恐怖を与えた(コブルスキルの戦いやジャーマンフラッツへの攻撃、チェリーバレー虐殺など)。とりわけ、ブラントを除くインディアン諸族の兵とイギリス兵の共同部隊による「ワイオミングの虐殺」は、1778年の夏ごろに戦争全体での優勢を確立しつつあった独立派へ大きな衝撃をもたらした。そうした中、独立派の大陸軍最高司令官であるジョージ・ワシントンはニューヨーク邦内のイロコイ勢力掃討を計画して大陸会議の許可を受け、1779年6月に根拠地の破壊と無力化を目的としたジョン・サリバン少将の遠征が実行された。9月まで行われたこのサリバン遠征でブラントらの部隊が壊滅させられることはなかったが(ニュータウンの戦い)、イロコイの居住地は徹底した破壊を受けて焦土化された。これは、オナイダ族を除くほとんどのイロコイ連邦諸族を明らかに敵として扱うものであった。ブラントは自身に賛同した他のイロコイ連邦諸族の一部も引き連れ、英領カナダを拠点として独立派に対するゲリラ戦を続けた(ラフリーでの一方的な勝利など)。 詳細は「サラトガ方面作戦#セントリージャーの遠征隊」および「北部戦線 (アメリカ独立戦争のサラトガ以降)#フロンティアでの戦い」を参照 独立戦争に勝利したのは独立派、アメリカ合衆国であった。パリ講和条約(1783年)では、イロコイ族を含むインディアン諸族は顧みられることなく、イギリスにミシシッピ川以東の地域を米国の司法権下へ引き渡された。イロコイ連邦は内部対立を収拾できないまま、スタンウィックス砦条約の会議に立たされる。1784年のスタンウィックス砦条約はアメリカ合衆国のイロコイ連邦に対する講和条約としての性質があり、イロコイは米国へ領土(ペンシルバニア州域北西部とニューヨーク州域西部の大半)の割譲を強いられ、その独立した地位(主権性)もほぼ喪失する。同条約の会議でイロコイ連邦は、以前まで有していた支配権の譲渡をアメリカ合衆国に対して原則的には受容しなければならない地位にあるということを認めることになった。強いられたこの条約をイロコイ側は批准しなかったが、そのことはもはや米国側によるイロコイからの土地獲得の障害にはならなかった。 独立派に与したオナイダ族とタスカローラ族も、1785年のハーキマー砦条約で土地の譲り渡しを州政府に強いられた。イロコイの諸族は以後も、1788年にオノンダーガ族とオナイダ族、1789年にカユーガ族、1797年にモホーク族が、州政府との個別条約で土地の譲り渡しを強いられていった。しかし、それらの条約はアメリカ連邦政府の承認が明確になっておらず、原則として合法性が疑われるものであった。
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