フロンティアでの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/11/23 03:38 UTC 版)
「北部戦線 (アメリカ独立戦争のサラトガ以降)」の記事における「フロンティアでの戦い」の解説
サラトガの後から終戦までフロンティアでは残忍な小競り合いが続いた。これらの作戦は主にロイヤリストのウォルター・バトラーとジョン・バトラーおよびモホーク族のジョセフ・ブラント達の指導下にあったロイヤリストやイロコイ族によって遂行され、ケベックのイギリス軍から支援された。1779年、ワシントンはインディアンの攻撃を鎮圧するためにジョン・サリバン将軍を懲罰的遠征に派遣した(サリバン遠征)。サリバンとその部隊は体系的にイロコイ族の集落を破壊して行き、イロコイ族をケベックにまで追い出すことに成功した。この遠征で唯一の大きな戦闘はニュータウンの戦いであり、バトラーとブラントの部隊をサリバン軍が破ったことだった。ブラントはアメリカ側に立ったオナイダ族やタスカローラ族の集落を標的にした襲撃を率いた。この両軍からのインディアン集落の破壊によってそれまでのイロコイ族の領土から実質的に人が居なくなり、襲撃からの生存者は難民になった。 バトラー達はニューヨークのフロンティア地域への攻撃を続け、一方ブラントは西部戦線でより活発に活動した。1782年4月初旬、ショーニー族インディアンの攻撃に対して、ミラーのブロックハウスの砦にいたアン・ハップは、夫が殺されて頭皮を剥がれた後も、24時間以上も守り続けた。アンは妊娠8ヶ月の身重だった。 休戦の予備合意がなされた後ですらブラントは戦争を続けようとしたが、イギリス軍が補給を止めたときにはその努力も止めざるを得なくなった。
※この「フロンティアでの戦い」の解説は、「北部戦線 (アメリカ独立戦争のサラトガ以降)」の解説の一部です。
「フロンティアでの戦い」を含む「北部戦線 (アメリカ独立戦争のサラトガ以降)」の記事については、「北部戦線 (アメリカ独立戦争のサラトガ以降)」の概要を参照ください。
- フロンティアでの戦いのページへのリンク