アメリカ独立戦争とフェアファックス卿の死
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「トマス・ブライアン・マーティン」の記事における「アメリカ独立戦争とフェアファックス卿の死」の解説
マーティンはロイヤリストとして、アメリカ独立戦争勃発後は目立たない姿勢を維持していた。1778年までに、バージニア州議会は小作を廃止していたが、フェアファックス卿の忠誠心を認め、ノーザンネック領地は例外にされた。フェアファックス卿はアメリカの植民地に住む唯一の貴族だったにも拘わらず、議会から敬意と思いやりをもって遇され、バージニアの住民として全ての特権を認められた。1781年にフェアファックス卿が死んだ後、その遺志は1782年3月5日に記録され、ノーザンネック領地を含めアメリカの資産の残りに対する権利は、マーティンの兄であるデニー・マーティンに継承され、デニーがフェアファックスの姓と紋章を引き継いだ。フェアファックス卿は、デニーがイギリスの議会に諮ってフェアファックス・オブ・カメロン卿の称号を継承することを認めさせるという条件で、その資産と称号を引き継がせた。マーティンは、ガブリエル・ジョーンズやピーター・ホッグと共に伯父からその遺言の執行人に指名された。マーティンはフェアファックス卿がジョン・ボーデンから買収した広さ600エーカー (2.4 km2) のプランテーションを承継した。また、グリーンウェイコートの荘園と、そこにある「牛、羊、豚の家畜全て、畜産業の道具、家財と家具」を遺贈された。マーティンおよび兄のデニーとフィリップはフェアファックス卿の奴隷全員も継承した。マーティンの叔父であり、フェアファックス卿の弟のロバート・フェアファックスがイギリスの議会にフェアファックス・オブ・カメロン卿の称号継承を申請し第7代となった。 デニー・フェアファックスはイングランドに住むために、マーティンとジョーンズを領地のマネジャーに指名した。マーティンとジョーンズは新聞に公告を出し、領地の小作人はフェアファックス卿に対する権利主張を持ってきて、それを証明するよう求めた。ウィリアム・フェアファックスの子孫は、フェアファックス卿に対する権利を主張し続けていた。それは1757年以前にウィリアム・フェアファックスによって提供されていたものだった。デニー・フェアファックスはこれら過去の権利主張から解放されるために、マーティンとジョーンズの指名を断念し、その代わりに第8代フェアファックス・オブ・カメロン卿ブライアン・フェアファックスを領地の唯一の執事として指名し、1784年9月21日、ロンドンで正式の手続きを行った。 デニー・フェアファックスはイングランドに住むイギリスの臣民だったので、アメリカの司法権下では何の法的権利も無かった。このためにデニーとそのイギリスの親戚は「外国の敵」と見なされ、その土地の所有権は没収法の下に押収された。1785年、バージニア州議会は、領主の土地に関する全ての記録、書籍、文書類はバージニア州が押収し、リッチモンドのバージニア州土地登録官事務所に移すことを命令した。バージニア州はまだ払い下げられていなかった領主の土地を差し押さえ、既に払い下げを受けていた市民にはその土地を保持することを認めた。ノーザンネックの土地価格は上がり続け、そのことをマーティンが1790年の手紙で取り上げていた。土地の価格が上がると、領地の多くの住民がその土地を売り、さらに奥地のフロンティアに移った。このことについて、マーティンは「「住民の移住は...驚愕するものである」とコメントしていた。
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