アメリカ独立戦争でのマサチューセッツ 1760年代-1780年代
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「マサチューセッツ州の歴史」の記事における「アメリカ独立戦争でのマサチューセッツ 1760年代-1780年代」の解説
ボストンは1775年以前の10年間革命活動の中心であった。指導者であったサミュエル・アダムズ、ジョン・アダムズおよびジョン・ハンコックがその後の戦争の間も重要な役割を果たした。税関が暴徒に襲われた1768年以来イギリス正規軍2個連隊が市内に常駐し、増加する乱暴行為に備えた。 1770年3月5日、ボストンで数人のイギリス兵に対して投石が始まり、イギリス兵によって5人の男が射殺される事件になった。ボストン虐殺事件として知られている。この出来事で課税問題やイギリス軍が駐屯していることに対する民衆のイライラをさらに募らせることになった。 植民地の者が抗議した多くの税金に関わる法の一つが茶法であり、これは東インド会社以外から茶を購入することを禁じていた。1773年12月16日、東インド会社がボストンで茶を運んできた船から揚陸しようとしているときに、自由の息子達として知られる土地の男たちが夜にボートで忍び入り、海中に全ての茶を投げ込んだ。ボストン茶会事件として知られている。 この事件によって、イギリス本国政府はいわゆる「耐え難き諸法」を通過させて、マサチューセッツに厳しい処罰を課した。植民地の経済的活力源であるボストン港を封鎖し、自治権を排除した。ボストンの陥っている苦境とイギリスの専制的な支配が植民地中に大きな同情を呼び憤懣を強めることになった。住民の大半がイギリス当局に反抗する状況の中で、1775年4月18日、ボストンからコンコードの武器弾薬庫を破壊する目的で軍隊が派遣された。この行軍をポール・リビアが後世に名を残すことになった真夜中の騎乗で周辺に警告して回った。その翌日、有名な「一発の銃声が世界を変えた」と言われたレキシントン・コンコードの戦いが起こり、イギリス軍はレキシントンの民兵を撃退したものの、土地の者の反抗によってボストン市への撤退を余儀なくされた。ボストン市はすぐに植民地の民兵によって包囲された。イギリスの議会はこれに先立つ1775年2月9日、マサチューセッツが反逆を起こしていると宣言し、治安維持のために増援軍を送った。イギリス軍がチャールズタウン半島を抑えようとしたときに、バンカーヒルの戦いが起こった。イギリス軍は戦いには勝ったが損失も甚だしかった。その後間もなく、ジョージ・ワシントン将軍が植民地軍の指揮を執り、1776年春にドーチェスター高地に大砲を据えることで、イギリス軍をボストンから撤退させ、独立戦争中でのアメリカ軍の最初の偉大な勝利を得た。このことでマサチューセッツ内での戦闘は無くなったが、植民地海軍はイギリス艦隊に破れることになった。 これらの戦いの結果、アメリカ13植民地の独立の気運が高まり、1776年7月4日、アメリカ独立宣言がフィラデルフィアで発せられた。宣言に最初に署名したのは大陸会議議長でマサチューセッツ住人のジョン・ハンコックであった。その後間もなくボストンの議会議事堂のバルコニーから市民に向かって独立宣言が朗読された。
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