革命活動
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その後上赤塚交番襲撃事件の立案、真岡銃砲店襲撃事件を機に地下に潜伏。革左人民革命軍と赤軍派中央軍を合体した統合司令部を設置し、統一赤軍を結成。印旛沼事件で元同志2人を殺害。統一赤軍から名称変更した連合赤軍に参加し、森恒夫や永田に次ぐナンバー3となる。12人の同志を殺害した山岳ベース事件に関与。事件中、総括を求められたメンバーへの総括援助として、上赤塚交番襲撃事件において同志一人を射殺した警官の役になり、彼と殴り合いをした(そのメンバーはその後縛り上げられ、山岳ベース事件最初の死亡者となる)。山岳ベース事件においては死者続出の総括に疑問を持ち、そのことを永田に告げたり、総括を続ける森の殺害を思い立ったりもした。このため、他のメンバーであれば自身が総括にかけられても当然の状況であったという。にもかかわらず坂口が総括にかけられなかったのは、森が坂口(と永田)を革命左派幹部として特別視していたからだとされる。 森と永田の下山中には留守役を任されていた。この間に坂口は山田孝を総括にかけた。しかし、この総括はそれまでの暴力的なものとは異なり、簡単な言葉のやりとりのみだった。坂口が「警察が来たらどうするか?」と問いかけたのに対しそのメンバーが「銃を持って戦う」と宣言したため総括できたと判断、束縛を解くなどこのメンバーを助けようとした。しかしその後、坂東國男が再びこのメンバーを縛り、その後は坂東が監視していたため助けることができず、妙義山ベースで衰弱死した。やがて3人もの脱走者が出たため密告を恐れてベースを移動する。 1972年2月(山岳ベースで最後の死者が出た直後)、山岳ベースから接触のため永田と森の東京の潜伏先に赴いた折、永田から「森と夫婦になることにした」と離婚を告げられた。森は逮捕される直前、坂口を「緊縛されたメンバーの縄を勝手に解いた」「(そのメンバーが死んだ際)その死を悲しそうに伝えた」として問題視しており、山岳ベース事件では森と永田が逮捕されずにメンバーと合流していれば、ナンバー3であった坂口弘が次の総括対象者だった(森と永田の結婚も、ナンバー2である永田が総括対象者と結婚しているのはおかしいという理論に基づいていた)。 移動の途中で仲間の逮捕者を出す一方、下山して逮捕された森と永田を欠いた中で仲間4人とともに2月19日あさま山荘に真っ先に侵入し、管理人の妻を人質に取るあさま山荘事件を起こす。坂口はあさま山荘事件では総大将格となり、2月22日に警察の包囲を突破して山荘に侵入しようとした民間人に発砲(民間人は3月1日死亡)、2月28日に36歳の報道関係者に発砲して重傷を負わせ、山荘の厨房で鉄パイプ爆弾を爆発させ、5人の機動隊員に重傷を負わせるが、夜には逮捕された。 この間、坂口の母親が現場に駆けつけ、「(人質の)○○さんの奥さん、申し訳ありません。奥さんを返してください。代わりが欲しいのなら私がいきますから」「十時に電話するから奥さんの声だけでも聞かせておくれ。奥さんをベランダに出して家族の皆さんに姿を見せてあげておくれ」とマイクで切々と訴えかけた。坂口は無反応であったが、呼びかけを聞いていた警察広報班の機動隊員はもらい泣きで記録ができなくなったという。なお、この母親は坂口の死刑確定後も面会の為に時間をかけて拘置所へ毎月通い、被害者や遺族に謝罪して回りながら息子の助命運動を続けていたが、2008年に他界している。
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革命活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/16 21:22 UTC 版)
華興会には帰国した留学生や国内各学堂の知識階級を中心に500余名が参加した。会員は湖南や上海を始め、東京などに同仇会、黄漢会、愛国協会、新華会、十人会などの分会が設置され、当時、中国おける最も影響力を有する反清組織であった。 また、黄興は湖南哥老会リーダーの馬福益に対し、武装蜂起協力を説得、武装蜂起時に人員と輸送用の馬の提供を求めた。十分な参加者が集まったことで、黄興は計画を前倒して長沙で武装蜂起の決行を決定、瀏陽、醴陵、衡陽、常徳、岳陽、宝慶などで革命軍を組織し、長沙に侵攻する計画であり、華興会は黄興を主師に、劉揆一、馬福益をそれぞれ正副総指揮に選出、決起は1904年(光緒30年)旧暦10月10日の西太后の誕生日と史、祝賀に終結した湖南省官人への爆弾攻撃を決起の合図とした。 しかし、10月に武装蜂起の情報が清朝側に漏洩、24日には出動した清兵が華興会機関を捜索し、游徳勝、蕭貴生が拿捕された。黄興たちは黄吉亭の庇護を受けて長沙を脱出し、上海に移動。その後、日本に逃亡している。馬福益は広西に逃れたが、翌年に湘西洪江に戻り、黄興との連絡役を果たし、洪江で再び武装蜂起組織の準備を行った。1905年(光緒31年)春、馬福益は萍郷駅で清兵に逮捕され、長沙で処刑されている。
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