革命派として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/24 07:04 UTC 版)
四川陸軍小学堂第1期に入学し、1909年(宣統元年)に卒業した。その後、南京の陸軍第四中学に入学している。この時に革命派思想に傾倒して、中国同盟会に加入した。1910年(宣統2年)春、保定陸軍軍官学校に入学する。 1911年(宣統3年)10月の武昌起義が勃発すると、上海へ向かう。この時、陳其美の指示を受けて再び北方に戻り、李石曽・汪兆銘(汪精衛)らと共に北京で同盟会京津分会を創設した。しかし、1912年(民国元年)2月、袁世凱の示唆を受けた北洋軍第3鎮により京津分会は粛清されてしまう。呂超は逃走して四川に戻った。 四川に戻った呂超は、同盟会系の川軍第5師師長熊克武の配下に加わる。1913年(民国2年)、第5師第2団団長に昇進した。同年、熊に従い二次革命(第二革命)に参戦したが、敗北して上海に逃亡する。さらに日本に留学して、浩然学社で学んだ。1914年(民国3年)、孫文(孫中山)が中華革命党を組織すると、呂超もこれに加入している。同年12月に帰国し、密かに反袁活動に従事した。
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