民初の活動
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1904年(光緒30年)、イギリスに留学してオックスフォード大学で法学を専攻し、法学士の学位を取得した。卒業後は、事務弁護士資格を取得し、業務にも従事している。1909年(宣統元年)に帰国し、広東審判庁庁長に就任する。1911年(宣統3年)、法学科進士となった。 1912年(民国元年)1月、中華民国が成立すると、羅文幹は広東都督府司法司司長に任命される。まもなく広東高等検察庁庁長に異動した。そして同年8月、羅は25歳にして北京政府の初代総検察庁庁長に就任した。1915年(民国4年)11月、袁世凱の皇帝即位に反対し、護国戦争を支持する討袁運動に参加した。 1916年(民国5年)6月に袁世凱が死去すると、羅文幹は北京に戻って復職する。王寵恵が総裁をつとめた修訂法律館の副総裁に任命される。このとき、王とは刑法典の改正事業にともに従事し、また親交を深めた。1919年(民国8年)1月、羅は欧州に赴き、イギリスで法廷弁護士資格を取得した。 翌年8月、王寵恵が大理院院長となると、羅文幹が副院長に任じられた。1921年(民国10年)10月、羅はワシントン会議代表団顧問となる。同年12月、梁士詒内閣で司法部次長兼大理院院長となった。翌年4月には、一時総長代理をつとめる。9月、王が内閣を組織すると羅が財政総長として起用された。
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民初の活動
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汕頭嶺東同文学堂を経て、広東武備学堂第1期に入学する。卒業後日本に留学し、陸軍士官学校第6期工兵科などで学んだ。帰国後は広東黄埔陸軍小学で教官、監督を歴任している。 1911年(宣統3年)、辛亥革命が勃発すると、黄慕松は革命派の民軍で参謀長に任ぜられた。1912年(民国元年)3月、臨時大総統府軍諮府(後の参謀本部)第5局局長兼北伐軍大本営兵站局副局長となる。翌年1月、国防考察委員に任ぜられ、モンゴルや新疆で視察を行った。北京に戻ると陸地測量総局局長に任ぜられたが、まもなく再び日本に留学し、陸軍大学校で学ぶ。 第一次世界大戦終結後、軍事研究専員に任命され、欧州へ軍事視察に赴く。帰国後は、中俄(中ソ)界務公署参議兼中俄会議専門委員に任ぜられた。また、交通部路線審査会主任も兼任している。1925年(民国14年)5月、軍務善後委員会委員となる。その後、南方政府側に転じ、1927年(民国16年)、国民革命軍第3師師長に任ぜられた。北伐完了後、国民革命軍総司令部軍官団副団長に任ぜられた。1929年(民国18年)8月、国民政府軍事委員会参謀本部測量総局局長となる。翌年、陸軍大学代理校長に任ぜられた。この年には、航空分野や測量分野の国際会議において、中国代表として数度出席している。
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民初の活動
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1906年(光緒32年)春、成都通省師範学堂に入学する。翌年、中国同盟会四川支部において同会に加入した。同年9月、反清蜂起計画に参加したが、事前に漏れたため、陝西省に逃亡している。その後も同盟会の指示を受け、国内各地で革命活動に従事した後、四川省に戻った。1910年(宣統2年)初めに四川高等警官学堂に入学している。 1911年(宣統3年)夏、四川鉄道保護運動(保路運動)が勃発すると、徐堪もこれに参加した。同年11月、重慶で蜀軍政府が成立すると、徐はこれに加わり、蜀軍第4標標統に任ぜられている。中華民国成立後の1913年(民国2年)8月、第二革命(二次革命)が勃発すると、革命派の熊克武・楊庶堪らと共に反袁世凱の蜂起を行ったが、敗北して上海に逃げ込んだ。このときに、名を「代堪」から「堪」に改めた。護国戦争に際しても、反袁活動に従事している。 1918年(民国7年)、徐堪は四川省に戻り、川滇靖国軍第1路司令部軍需処長県江北県県長に任ぜられる。翌年、四川で補欠選出の国会議員となった。1921年(民国10年)4月、広州非常国会で、孫文(孫中山)の非常大総統選出に加わっている。1922年(民国11年)以降は北京で中国国民党のための活動に従事した。1924年(民国13年)の北京政変(首都革命)後に、一時、農工部商品陳列所所長に就任している。
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民初の活動
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中華民国成立後、譚人鳳は宋教仁から国民党参加を呼びかけられたが、政党を組織しての反袁世凱闘争に疑問を抱き、これには参加しなかった。1913年(民国2年)3月、宋が袁の刺客に殺害されると、譚は第二革命(二次革命)に参加したが、敗北して日本に亡命した。日本では、孫文の中華革命党と黄興の欧事研究会が組織され、双方が対立する事態となる。譚はいずれにも参加せず、両派の斡旋に心を砕いた。 1916年(民国5年)春、譚人鳳は帰国して護国戦争(第三革命)に参与し、漢口や山東省で活動した。1917年(民国6年)からの護法運動でも孫文を補佐して、主に広東省、福建省で構成員間の連絡に従事している。後に病気のため上海で静養することになった。 1920年(民国9年)4月24日、上海で病没。享年61。1935年(民国24年)7月、国民政府から陸軍上将位を追贈された。没後、彼の遺児が北一輝に引き取られ北大輝として、彼の養子となり、育つ。
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民初の活動
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父が広西省に地方官吏として赴任することになったため、曽琦ら一家もこれに従った。1908年(光緒34年)、桂林中学を卒業したが、父母が相次いで世を去り家庭事情が苦しくなったため、四川に戻っている。その後、成都法政学堂に入学し、さらに『成都商報』などの新聞紙でジャーナリスト活動を開始した。辛亥革命前後は、実際に革命活動には参加しなかったものの、引き続き言論活動に従事している。 1913年(民国2年)の第二革命(二次革命)では、革命派に直接参加したが、敗北したために故郷に隠れ住んだ。翌年、上海に移り、震旦学院で法律を学ぶ。このとき、後の中国青年党結成メンバーである左舜生・李璜らと知り合った。1916年(民国5年)春、日本に渡り、東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)に入学して日本語を習得する。同年秋、中央大学に入学し、憲法・行政法を学んだ。このとき、華瀛通訊社を創設するなど、出版活動に従事している。また張勲復辟に際しては、梁啓超に手紙を送り、慎重な対応を促すなどした。 1918年(民国7年)5月、日華陸軍共同防敵軍事協定が結ばれたことに抗議して、曽琦は中央大学を中途退学して帰国する。同年7月、北京で王光析・李大釗らと少年中国学会を組織した。曽はその後上海に移って『救国日報』を創刊し、また章炳麟(章太炎)に師事した。翌1919年(民国8年)、五四運動が勃発すると、これを支持する論評を次々と発表している。
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民初の活動
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中華民国成立後は、劉揆一は袁世凱への接近を図るようになる。1912年(民国元年)8月、陸徴祥内閣の工商総長に就任した。この際、中国同盟会からの離脱を宣言したが、9月の趙秉鈞内閣で宋教仁率いる国民党に復帰している。 翌年3月の宋教仁暗殺後、劉揆一は反袁派に参加しようとした。しかし、孫文・黄興からその反復を嫌悪され、参加を事実上拒絶されてしまう。そのため、劉は北京に留まって袁を支持した。ところが、工商部が私的に外債を借りたことが明るみに出てしまう。7月、劉はその責任をとらされ、工商総長を辞任に追い込まれた。 袁世凱が皇帝即位を目論むと、劉揆一はこれに反対の論陣を張る。護国戦争が勃発すると、護国軍を支持した。その後も政治活動を続けたが、南北双方で重要な地位は得られず、国民政府成立後は完全に政界から引退してしまう。以後、在野にあって『黄興伝記』を出版したり、あるいは中国国民党党史編纂委員会纂修をつとめたりしている。1933年(民国22年)、一時的ながら蔣介石から行政院顧問として招聘された。しかし、劉揆一が呈した聯共的言論は蔣に嫌悪され、翌年に罷免されてしまった。 中華人民共和国成立後も劉揆一は大陸に留まる。湖南省軍政委員会顧問として任用された。1950年11月1日、故郷の湘潭にて病没。享年73(満71歳)。
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民初の活動
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幼い頃から騎射・武術をたしなんでいた。1908年(光緒34年)に雲南陸軍第19鎮随営学堂に入学する。2年後に雲南陸軍講武堂に転入した。在学中に中国同盟会に加入している。雲南辛亥革命(昆明重九起義)が勃発すると、朱培徳も学生軍に加わって、革命派として戦った。中華民国成立後は、雲南軍(滇軍)の一員として軍歴を重ねていく。 1915年(民国4年)12月の護国戦争勃発に際して、朱培徳は当初蔡鍔率いる護国軍第1軍に属したが、まもなく李烈鈞率いる第2軍に移り、広東方面で戦闘に参加した。護国戦争終結後、朱は第2軍を改組した駐粤滇軍第7混成旅旅長として、引き続き広州に駐屯している。1917年(民国6年)8月、孫文(孫中山)が護法運動を開始すると、朱もこれに参加した。朱は北京政府軍との戦いで軍功をあげ、滇軍第4師師長兼広州衛戍司令に昇進している。 1920年(民国9年)2月、滇軍内部で唐継尭と李根源の間で権力闘争が発生する。朱培徳は唐を支持したが、李の妨害にあって朱は一時滇軍を追われることになる。1921年(民国10年)6月、孫文の広西省進攻に参加するため、朱は軍勢を率いて孫の下に駆けつけた。以後、朱は唐の指導を離れて孫に与し、同年12月には中国国民党に加入している。 1922年(民国11年)6月、陳炯明が孫文に叛逆すると、朱培徳は孫を守って戦う。その後も陳討伐などで活躍し、翌年には大本営参軍長兼代理軍政部長に就任した。1924年(民国13年)9月には、江西省で北京政府軍を撃破している。翌年3月に北京で孫が死去すると、滇軍出身の楊希閔らが国民党に反旗を翻そうとする。朱は楊らを討伐、掃討することに貢献した。
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民初の活動
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祖父は貢士の家庭に生まれる。1903年(光緒29年)、蘇州長洲高等小学堂に入学し、1909年(宣統元年)、南京の江蘇陸軍小学堂第4期生として進学した。辛亥革命が勃発すると、上海の学生軍に参加している。まもなく、革命派の鈕永建が創設した松江軍政分府松江軍幹部学校に入学し、卒業後は松江軍に加入した。南北和議・北京遷都に伴い、松江軍政分府が解散されると、銭大鈞は蘇州に引き返している。 1912年(民国元年)、銭大鈞は江蘇陸軍小学堂に復学し、同年末に卒業した。翌年、第二革命(二次革命)が勃発すると、銭は鈕永建配下として学生隊・決死隊を組織した。しかし、革命派は敗北し、銭は故郷に隠れ住んだ。1914年(民国3年)銭は鈕の紹介で日本へ留学し、孫文(孫中山)と対面し、感銘を受けて中華革命党に加入している。 同年末に銭大鈞は帰国し、武漢で南湖陸軍第二予備学校で学んだ。しかし、革命派としての秘密活動を展開していたところ、湖北都督王占元に猜疑され、上海へ逃れる。上海では鈕が組織した革命派の軍の結成・練成に従事している。護国戦争を経て銭は湖北省の陸軍小学堂に復帰し、1916年(民国5年)12月に卒業した。その後、保定陸軍軍官学校で砲術を学び、1917年(民国6年)4月、成績優秀のため日本へ派遣され、陸軍士官学校中国学生隊第12期砲兵科で学んだ。
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