蜂起計画
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イースター蜂起の計画は8月の英国による対独宣戦布告から数日後には始まっている。IRB最高評議会の会合がパーネル・スクウェア25番地で開かれ、「イングランドの困難はアイルランドの機会である」との古い格言に基づき、戦争が終わる前に何らかの行動を起こすことが決定された。最高評議会は3つの決定を下した。すなわち、軍事評議会を設置する、ドイツからの援助を求める、義勇軍を掌握する、である。 IRBの最終目的は独立したアイルランド国家の樹立であるが、一つの反乱によってそれを達成することはないと考えられていた。歴史家オーエン・ニーソンは計画では軍事的勝利は考慮されておらず、指導者たちは幾つかの軍事的成功のみを考えていたようであると指摘している 。IRBは蜂起での三つの目標を設定した。第一に独立の宣言。第二に人々の活力を取り戻して分離への国民的な機運をもたらす。そして第三に大戦後の講和会議での地位を求めることである。 この目的のためにIRB会計担当のトマス・クラークは蜂起を計画する軍事評議会を設置した。これはパトリック・ピアース、エーモン・キャント、ジョゼフ・プランケット(英語版)と彼自身で構成され、後にショーン・マクディアマダが加わっている。彼らの全員がIRBのメンバーであり、クラークを除く全員がアイルランド義勇軍のメンバーでもあった。 トマス・クラーク パトリック・ピアース エーモン・キャント ジョゼフ・プランケット IRBの第二の目標はこの時点で達成されていた。IRBは数多くの社会団体に浸透しており、これにはゲーリック体育協会、ゲール語連盟、シン・フェイン党、労働組合、後にはアイルランド市民軍も含まれる。これらの組織を通じて、彼らはナショナリズム、分離主義そして最終的な変革への心理的動因をもたらそうとした。 義勇軍は1913年の発足以来、IRBのメンバーが次々と将校に昇進して次第にその支配下に入って行っていた。そもそも、義勇軍は武装蜂起の目的のためにIRBの扇動によって結成されたものである。その結果、1916年には義勇軍の指導層の大部分が忠実な共和主義者となっていた。例外は創設者で参謀総長のオーエン・マクニールで、彼はIRBの意図に気づいていなかった。マクニールは第一次世界大戦開戦以降は義勇兵を英国との取引材料に使おうと考えていた 。 IRBはテオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク帝国宰相、ルドルフ・ノドルニー伯爵、ヒンダル大尉を代表とするドイツ帝国軍最高司令部と交渉を開始した。IRB側はジョゼフ・プランケット(1915年にベルリンへ旅行したことがある)が代表となり、彼の父のプランケット伯が加わった。 これとは別にロジャー・ケースメントが1914年からドイツに滞在して義勇軍の代表として交渉を続けていた。ケースメントはIRBのメンバーではなく、IRBの義勇軍への浸透に全く気付いていなかった。ケースメントの目的はドイツの収容所にいるアイルランド人捕虜によって旅団を編成し英軍と戦うことであり、また貧弱な武装の義勇軍のためにドイツから武器を調達することも目的であった。前者は成功せず、また彼がドイツからの支援をとり付けた銃器の数は期待を下回るものであった。 米国のワシントンD.C.においてもジョン・デヴォイ(米国内におけるアイルランド共和主義者の団体クラン・ナ・ゲール:「ゲールの家族」の指導者)がヨハン・ハインリッヒ・フォン・ベルンシュトルフ駐米独大使、ウォルフ・フォン・イーゲル第一書記官と1914年、15年、16年に交渉を持った。これらの交渉を通じて、ドイツ政府から、もしもアイルランド人が「正当な地位を奪われた」国家として彼らの国を樹立したならば、戦後の講和会議において発言の機会を認めるとの了解を得た。 社会主義労働組合の武装組織であるアイルランド市民軍(ICA)を率いるジェームズ・コノリーはIRBの計画について全く知らず、もしも他の組織が行動を起こさないのならば自ら反乱を起こすと脅迫してきた。市民軍は200人ほどの組織であり、彼らが行動を起こすことは自殺行為と言えるものであった。彼らは単独で決起しても、IRBと義勇軍が呼応するであろうと考えていた。そのため、IRBの指導者たちは1916年1月にコノリーと会見し、彼の組織も計画に参加するよう説得した。彼らは次の復活祭で伴に行動することに合意し、コノリーを軍事評議会の6人目のメンバーとした(後にトマス・マクドナーが7人目のそして最後のメンバーとなった)。 密告の阻止と義勇軍の指導のため、4月初めにピアースは復活祭の日曜日から3日間の「パレードと演習」を発令した(これは組織部長である彼の権限であった)。義勇軍内の共和主義者(とりわけIRBのメンバー)には、この命令が何を意味するかよく分かっていた。一方、マクニールやダブリン城の総督府は額面どおりにしか受け取っていなかった。だが、やがてマクニールは異様な雰囲気を察知して、「たとえダブリン城へ通報することでも、可能なことはなんでもする」とピアースに脅しをかけた。 マクニールはショーン・マクディアマダから、IRBがロジャー・ケースメントとともに手配したドイツの武器の船荷が近いうちにケリー県に陸揚げされると明かされた時に何らかの行動が差し迫っていると確信させられた。彼はこのような船荷が当局に摘発されれば、義勇軍は弾圧されることになり、必然的に義勇軍は自衛行動に出ざるを得なくなることは疑いないと思った 。 ドイツから提供された支援に失望していたケースメントはドイツの潜水艦でアイルランドへ戻ったが、トラリー湾のバナ海岸に上陸してすぐに逮捕されてしまった。武器はノルウェーの漁船に偽装したドイツ船オウド号に積み込まれていたが、現地の義勇軍が会合に失敗し、英海軍に発見されて自沈している。 翌日、マクニールは武器を積んだ船が自沈したことを知り、本来の立場に立ち戻った。同じ考えを持つ他の指導者たち、特にブルマー・ホブソンとザ・オラヒリーの助けを得て、彼は義勇軍に対し日曜日の全ての行動を取り消す中止命令を出した。これは蜂起を一日延ばしただけであったが、蜂起に参加する義勇兵の数を大幅に減らす結果となった。 ドイツ本国と駐米ドイツ大使館との無線通信は英海軍によって傍受され、海軍本部40号室で解読されており、武器の密輸とケースメントの帰還そして蜂起を行う復活祭の日付は海軍情報部によって既に察知されていた。この情報は4月17日にアイルランド次官マシュー・ネイサンへ渡されたが、情報源が秘匿されていたため、ネイサンは懐疑的だった。オウド号の摘発とケースメント逮捕のニュースがダブリンに届き、ネイサンは総督のウィンボーン卿と対策を協議した。ネイサンは市民軍の司令部があるリバティ・ホールおよび義勇軍の建物があるファザーマシュー・スクウェアとキメージを急襲することを提案したが、ウィンボーン卿は指導者たちの一斉逮捕を主張した。結局、復活祭の月曜日まで行動を先延ばしすることになり、ネイサンはロンドンのアイルランド大臣オーガスティン・ビレルに行動の承認を求める電報を打った。ビレルが行動を認める返電を送ったのは1916年4月24日月曜日であり、蜂起はすでに始まってしまっていた。
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