蜂起計画とは? わかりやすく解説

蜂起計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 15:45 UTC 版)

イースター蜂起」の記事における「蜂起計画」の解説

イースター蜂起計画8月英国による対独宣戦布告から数日後には始まっている。IRB最高評議会会合がパーネル・スクウェア25番地開かれ、「イングランドの困難はアイルランド機会である」との古い格言に基づき戦争が終わる前に何らかの行動起こすことが決定された。最高評議会3つの決定下した。すなわち、軍事評議会設置するドイツからの援助求める、義勇軍掌握する、である。 IRB最終目的独立したアイルランド国家樹立であるが、一つ反乱によってそれを達成することはないと考えられていた。歴史家オーエン・ニーソンは計画では軍事的勝利考慮されておらず、指導者たちは幾つかの軍事的成功のみを考えていたようであると指摘している 。IRB蜂起での三つ目標設定した第一に独立宣言第二人々活力取り戻して分離への国民的な機運もたらす。そして第三大戦後講和会議での地位求めることである。 この目的のためにIRB会計担当のトマス・クラークは蜂起計画する軍事評議会設置した。これはパトリック・ピアース、エーモン・キャント、ジョゼフ・プランケット(英語版)と彼自身構成され、後にショーン・マクディアマダが加わっている。彼らの全員IRBメンバーであり、クラークを除く全員アイルランド義勇軍メンバーでもあった。 トマス・クラーク パトリック・ピアース エーモン・キャント ジョゼフ・プランケット IRB第二目標はこの時点達成されていた。IRB数多く社会団体浸透しており、これにはゲーリック体育協会ゲール語連盟シン・フェイン党労働組合、後にはアイルランド市民軍含まれる。これらの組織通じて、彼らはナショナリズム分離主義そして最終的な変革への心理的動因もたらそうとした。 義勇軍1913年発足以来IRBメンバー次々と将校昇進して次第にその支配下入って行っていた。そもそも義勇軍武装蜂起目的のためにIRB扇動によって結成されたものであるその結果1916年には義勇軍指導層大部分忠実な共和主義者となっていた。例外創設者参謀総長のオーエン・マクニールで、彼はIRB意図気づいていなかった。マクニール第一次世界大戦開戦以降義勇兵英国との取引材料使おう考えていた 。 IRBテオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク帝国宰相、ルドルフ・ノドルニー伯爵、ヒンダル大尉を代表とするドイツ帝国軍高司令部と交渉開始したIRB側はジョゼフ・プランケット(1915年ベルリンへ旅行したことがある)が代表となり、彼の父のプランケット伯が加わった。 これとは別にロジャー・ケースメント1914年からドイツ滞在して義勇軍代表として交渉続けていた。ケースメントIRBメンバーではなくIRB義勇軍への浸透に全く気付いていなかった。ケースメント目的ドイツ収容所にいるアイルランド人捕虜によって旅団編成し英軍と戦うことであり、また貧弱な武装義勇軍のためにドイツから武器調達することも目的であった前者成功せず、また彼がドイツからの支援をとり付けた銃器の数は期待下回るものであった米国ワシントンD.C.においてもジョン・デヴォイ(米国内におけるアイルランド共和主義者の団体クラン・ナ・ゲール:「ゲールの家族」の指導者)がヨハン・ハインリッヒ・フォン・ベルンシュトルフ駐米独大使、ウォルフ・フォン・イーゲル第一書記官と1914年15年16年交渉持った。これらの交渉通じてドイツ政府から、もしもアイルランド人が「正当な地位奪われた」国家として彼らの国を樹立したならば、戦後講和会議において発言機会認めるとの了解得た社会主義労働組合武装組織であるアイルランド市民軍ICA)を率いジェームズ・コノリーIRB計画について全く知らず、もしも他の組織が行動を起こさないのならば自ら反乱を起こす脅迫してきた。市民軍200人ほどの組織であり、彼らが行動を起こすことは自殺行為と言えるものであった。彼らは単独決起しても、IRB義勇軍呼応するであろう考えていた。そのため、IRB指導者たちは1916年1月コノリー会見し彼の組織計画参加するよう説得した。彼らは次の復活祭伴に行動することに合意しコノリー軍事評議会の6人目メンバーとした(後にトマス・マクドナーが7人目のそして最後メンバーとなった)。 密告阻止義勇軍指導のため、4月初めにピアース復活祭日曜日から3日間の「パレード演習」を発令した(これは組織部長である彼の権限であった)。義勇軍内の共和主義者とりわけIRBメンバー)には、この命令何を意味するかよく分かっていた。一方マクニールダブリン城総督府額面どおりにしか受け取っていなかった。だが、やがてマクニール異様な雰囲気察知して、「たとえダブリン城通報することでも、可能なことはなんでもする」とピアース脅しをかけた。 マクニールはショーン・マクディアマダから、IRBロジャー・ケースメントとともに手配したドイツ武器船荷近いうちにケリー県陸揚げされる明かされ時に何らかの行動差し迫っていると確信させられた。彼はこのような船荷当局摘発されれば、義勇軍弾圧されることになり、必然的に義勇軍自衛行動に出ざるを得なくなることは疑いないと思ったドイツから提供され支援失望していたケースメントドイツ潜水艦アイルランド戻ったが、トラリー湾のバナ海岸上陸してすぐに逮捕されてしまった。武器ノルウェー漁船偽装したドイツオウド号に積み込まれていたが、現地義勇軍会合失敗し英海軍発見され自沈している。 翌日マクニール武器積んだ船が自沈したことを知り、本来の立場に立ち戻った。同じ考えを持つ他の指導者たち、特にブルマー・ホブソンとザ・オラヒリーの助け得て、彼は義勇軍対し日曜日全ての行動取り消す中止命令出した。これは蜂起一日延ばしただけであったが、蜂起に参加する義勇兵の数を大幅に減らす結果となったドイツ本国と駐米ドイツ大使館との無線通信英海軍によって傍受され海軍本部40号室で解読されており、武器密輸ケースメント帰還そして蜂起を行う復活祭日付海軍情報部によって既に察知されていた。この情報4月17日アイルランド次官マシュー・ネイサンへ渡されたが、情報源秘匿されていたため、ネイサン懐疑的だった。オウド号の摘発ケースメント逮捕ニュースダブリン届きネイサン総督のウィンボーン卿と対策協議したネイサン市民軍司令部があるリバティ・ホールおよび義勇軍建物があるファザーマシュー・スクウェアとキメージを急襲することを提案したが、ウィンボーン卿は指導者たちの一斉逮捕主張した結局復活祭月曜日まで行動先延ばしすることになり、ネイサンロンドンアイルランド大臣オーガスティン・ビレルに行動承認求め電報打った。ビレルが行動を認め返電送ったのは1916年4月24日月曜日であり、蜂起はすでに始まってしまっていた。

※この「蜂起計画」の解説は、「イースター蜂起」の解説の一部です。
「蜂起計画」を含む「イースター蜂起」の記事については、「イースター蜂起」の概要を参照ください。

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