蜂起軍の失速
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 17:15 UTC 版)
親独政権のティソは、蜂起開始後も依然としてブラチスラヴァで権力を掌握していた。ドイツ国防軍は蜂起軍鎮圧のために4万人のナチス親衛隊を動員し、ソ連軍の侵入ルートを確保しようとしていた蜂起軍2個師団の兵士2万人を制圧して武装解除した。 亡命政府のベネシュは、蜂起前の1943年12月、蜂起に対するソ連の支援をとりつけるためにモスクワを訪問し、スターリンやモロトフと会談していたが、蜂起がポーランドのワルシャワ蜂起と重なったことから、蜂起開始に合わせたソ連軍の軍事支援は行われず、しかもソ連パルチザン司令部は蜂起軍に対して優位な立場を確保するために、蜂起軍司令部の頭越しに直接前線のパルチザン部隊への司令を続けた。またソ連パルチザンは、蜂起軍が備蓄していた武器・弾薬を放出させたほか、ソ連が蜂起軍支援のために投入した兵器の大半を接収し、スロバキア側にはほとんど渡さなかった。 9月8日、ソ連軍はスロバキアとポーランドの国境にあるドゥクラ峠制圧作戦(カルパティア・ドゥクラ作戦)を開始し、カルパティア山脈の山中からドイツ国防軍を攻撃した。戦闘は10月28日まで約2カ月間にわたって続いたが、ソ連側の死者が2万1000人に達する大きな犠牲を払っただけで終わり、峠を制圧することができなかった。ソ連軍が夏季に大規模なバグラチオン作戦を実施した直後だったことやワルシャワ蜂起失敗などが要因として重なり、作戦は失敗した。 このころになると、亡命政府のベネシュ、ソ連パルチザン、スロバキア国内の各集団が主導権を巡る争いをはじめていた。ベネシュは蜂起前と同じく主導的立場を取ろうとしたが、蜂起軍総司令官のゴリアンはいずれの集団にも組しなかった。この混乱の中、亡命政府国防大臣を務めた元チェコスロバキア軍将軍のルドルフ・ヴィエストがスロバキアに帰国して蜂起軍に合流したため、ゴリアンは総司令官をヴィエストに譲って自らは副司令官に就任した。ヴィエストは10月7日に部隊を掌握したが、各集団の思惑に阻まれ、蜂起軍全体の戦況を十分に把握できる立場にはなかった。 また9月17日には、ズヴォレン郡スリアチュ町のトリ・ドゥビ空港に米軍戦略諜報局のジェームズ・ホルトグリーン中尉が乗ったB-17爆撃機2機が、翌日には英軍特別作戦部のジョン・セーマー少佐が乗った英軍機が飛来した。2人は西部戦線の連合国軍に対し、蜂起軍の形勢が悪化しているのではないかという懸念を裏付ける報告を行った。
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