蜂起以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 23:40 UTC 版)
アダム・イェジ・チャルトリスキは、ロシアとの戦争は1830年11月に若い愛国者たちが無定見に引き起こしたもので、早すぎたにせよ遅すぎたにせよ時期が悪すぎたと述べている。1828年の露土戦争中に蜂起を起こしていれば、ロシアがポーランドにこれほど大規模な軍隊を投入することは出来ず、展開は違っていただろうという意見もある。ロシアのプジレフスキー将軍を始めとする多くの軍事評論家は、2国の間には資力に大差があったが、ポーランドが常に好機をとらえて行動し、巧妙に軍事作戦を展開したと見ている。ロシアは18万のよく訓練された兵隊を送り込んだ一方で、対峙するポーランドは兵力7万人で、その30%が開戦時に雇われたばかりの新兵だった、にもかかわらずである。 ポーランドでは、蜂起したポーランド人の無政府状態と団結力の無さがポーランド市民の敗北の原因だったという見方もある。反乱が本格的に始まったとき、人々は意見の分裂が敗北を招くのを恐れ、何の批判もなく指導者に専制的権力を与えた。不運にも、過去の功績から期待されて指導者に選ばれた人物は、期待された指導力を発揮出来なかった。さらに、彼ら指導者の多くが、時期の悪さから蜂起の成功を信じていなかった。 軍事的には、ポーランド軍がもし戦線をリトアニアにおくことに成功するか、ポーランドに攻め入ったロシア軍を分断できていれば、成功した可能性もある。 ポーランドからフランスに亡命した女性達は、故郷の喪失を悼むために黒いリボンと宝石を着けていた。1999年に公開されたアンジェイ・ヴァイダ監督の映画作品『パン・タデウシュ物語』の冒頭には、同様の姿をした女性達が登場している。
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