蜂起の開始とは? わかりやすく解説

蜂起の開始

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/10 09:47 UTC 版)

トゥドル・ウラジミレスク」の記事における「蜂起の開始」の解説

詳細は「ワラキア蜂起」を参照 1821年ワラキア公アレクサンドル・スツォフ (en) が死去するフィリキ・エテリア参加していたルーマニア貴族(ボィエール) (en) たちは統治委員会結成ワラキア公国掌握した上でトゥドールと盟約結んだ。そしてトゥドールはボイエールらと打ち合わせてオスマン帝国軍ドナウ川方面引き寄せてフィリキ・エテリア軍司令官イプシランティス率いフィリキ・エテリア義勇軍ペロポネソス半島向かえるようにする手はずとなった1821年1月19日旧暦1月18日)、トゥドールはオルテニア向かい正義と自由を近いながら周辺地域住民らに武器をとって戦うよう飛ばしたが、これにはオルト川西側の県が呼応したヴラディミルはティスマナ修道院(ro)に到着する1月23日旧暦2月4日)パデシュ宣言(ro)を発表ワラキア全土蜂起拡大しトランシルヴァニアにも波及したが、モルダヴィア地域的に孤立している上にオスマン帝国に対して対抗する意識薄かったためさほど動揺が広がらなかった。 パデシュ宣言ではこの蜂起においてパデシュに集合したパンドゥルと農民らが代表となって人民集会形成、彼らがワラキア住民の代表となることが宣言されており、この宣言聞いた千人もの農民らがトゥドールの下へ集結した。 そしてトゥドールは厳格な軍紀制定したがトゥドールの蜂起に参加した住民らは貴族修道院襲って貯蔵物を分配するなど永年圧政対す怒り爆発させたが、トゥドールはこれを取り締まった。そしてティスマナ(ro)、ストレハイア(ro)、モトル(ro)の修道院占領してオスマン帝国対向するための用意行った。そしてさらに公国財政行政にも手を打つために副代官罷免して商人らに行政権軍事与えたがこれは貴族らの圧力前に取り消さざるを得なかった。 さらにトゥドールはオスマン帝国介入しないようにするため、オスマン帝国に対して忠誠誓いあくまでも今回蜂起ファナリオティスによるワラキア支配への反対運動であることを覚書認めて送った。そしてロシアオーストリアにも各所送り今回蜂起圧政対す蜂起であり、支持軍事介入要求した。 これに対して統治委員会はトゥドールが発表した宣言オスマン帝国知られることを恐れたために矮小化、どうしても報告オスマン帝国へ送らなければならない場合もただの騒ぎあるよう見せかけるために努力した。そしてトゥドール軍を制御下に置くために部隊派遣したがこの部隊はトゥドール陣営加わった。 彼らを加えたトゥドール軍はオルテニア兵5,000名、アルバニア騎兵1,500名を加えた軍勢ブカレスト進撃3月16日ブカレスト郊外のボレンティン・ヴァーレに到着したが、ロシア皇帝アレクサンドル1世がこの蜂起非難してトゥドールの聖ウラジーミル勲章剥奪ロシア軍庇護否定した。そのため、フィリキ・エテリア想定していたロシア軍支援受けられないことが確定してしまったため、ブカレスト統治委員会の主要メンバートランシルヴァニア逃走した。 この状況においてブカレスト守備隊司令官ビムバシャ・サヴァはイプシランティスが到着する前にトゥドールの入城阻止しようとしたが、4月6日旧暦3月21日)にブカレスト入城したトゥドールらを住民らは熱狂的に歓迎した。そのため、トゥドールはボレンティン・ヴァーレで市民らへ呼びかけ行ない権利回復するための協力ブカレスト市民も国の一員であること、祖国への愛を忘れることは許されないことを訴えた。そしてブカレスト市内ギルド呼びかけて各ギルドが2名の代表を送るよう求めると各ギルド10名の代表を送った。 しかし統治委員会メンバー逃走したことはトゥドールの行動法的正当性失わせることになっていたため、トゥドールは貴族らとの間で協定を結び一時的に国を支配すること確認貴族らもトゥドールの行動国土回復人民利益に有効であるとした。そして貴族らはオスマン帝国に対してトゥドールの活動正当な権利であることを伝えはしたが、貴族らはイプシランディスらが到着するまで日和見立場とっていた。 1821年3月6日旧暦2月28日)、モルダヴィア蜂起開始したアレクサンドル・イプシランティスはヤシ兵力資金集めた上でブカレストのコレンティナ (en) に到着したが、トゥドールはイプシランティスとの面会1週間遅らせた会談においてイプシランティスはトゥドールに対してロシア軍がまもなく到着するから命令に従うよう要請した。トゥドールはこれを拒否をしたが、トゥドールはイプシランティスとの諍い発生することを恐れてフィリキ・エテリア軍には食料有償供給することを約束、イプシランティスがトゥドールの率いる軍を傭いたいという要請拒否した。しかし、ロシア皇帝アレクサンドル1世よりイプシランティスの行動非難総領事ピニを退去させた上でオスマン帝国ワラキアモルダヴィア公国に兵を送ることを認め文書到着するとイプシランティスはトランシルヴァニア方面トゥルゴヴィシテ移動、トゥドールはイプシランティスが退去する同時にブカレスト占領、ミハイ・ヴォダ(ro)、ラドウ・ヴォダ(ro)、メトロポリタン(ro)の各修道院占領してイプシランティスの元へ逃亡しようとしていた統治委員会委員をディニク・ゴレスク(ro)のベルヴェデーレ別荘監禁、したことでトゥドールのワラキア公国支配成立した。 トゥドールはワラキア支配確立したことで施策開始布告発して減税農民保護行ったが。それを受けたワラキア人々らは彼を『トゥドール公』と読んだ。そのため、民衆等の支持増し、トゥドール率い軍勢多く人々参加した。そして人民集会事実上ワラキア守り得る唯一の組織であったが、トゥドールはオスマン帝国との協定成立願いまた、貴族僧侶などの支配者層との協調望んでいた。そのため、ヴィディンブライラパシャらと連絡してあくまでも今回蜂起ファナリオティスらによる過酷な支配対抗するためのものでオスマン帝国服従し忠誠を誓うことを約束したパシャとの連絡パシャらはトゥドールらに武装放棄するよう求めていたが、トゥドールは武装無くして国の危機を救うことはできない判断抵抗準備始め、各財政単位で2名の兵を徴募するよう事実上徴兵行なった上でコトロチェニ兵営要塞化して兵の訓練行い、イプシランティスによってドナウ川沿いのエテリア軍の総司令官であったアルバニア傭兵司令官サヴァ陣営引き入れてさらに軍勢強化行なおうとした。 しかし、サヴァ、ヨルダケ・オリンピオットらとともにオスマン帝国盟約結んでおり、エテリア軍弾圧参加していた。そして5月13日旧暦5月1日)、ワラキア侵攻したオスマン帝国軍ブカレスト接近すると、5月27日旧暦5月15日)、トゥドールはブカレスト戦火塗れることを恐れて兵を引き上げてピテシチへ移動オルテニア要塞化された僧院撤退しようとした。しかし、トゥドールがアルジェシにあるアルジェシ川 (en) のでヨルダケ・オリンピオットと面会するヨルダケはトゥドールをゴレシチ邸へ無理やり滞留させた上でイプシランティスに引渡した6月8日旧暦5月27日)イプシランティスは裁判無しにトゥドールを殺害した指揮官であるトゥドールを失ったトゥドール軍はイプシランティスの配下になったもの、オルテニア撤退したもの別れた。イプシランティスの配下になったものはドラガシャニの戦いでイプシランティス率いフィリキ・エテリアとともに壊滅オルテニア撤退した方は僧院立てこもり1ヶ月以上、オスマン帝国軍抵抗したが、結局壊滅した。 そしてイプシランティスはトランシルバニアアルバニア傭兵部隊とともに逃亡したが、オスマン帝国追撃激しく、イプシランティスはオーストリアへ、アルバニア傭兵はブゴヴィナ、ベッサラヴィア逃亡した。そしてアルバニア傭兵部隊司令官サヴァブカレスト殺害され、ここにワラキア蜂起幕を閉じた

※この「蜂起の開始」の解説は、「トゥドル・ウラジミレスク」の解説の一部です。
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