蜂起まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/10 09:47 UTC 版)
「トゥドル・ウラジミレスク」の記事における「蜂起まで」の解説
オルテニアゴルジュ県ヴラディミル (en) の自由農民として生まれ、オーストリアと家畜交易に従事していた。トゥドールは若い頃から民兵(パンドゥル) (en) に編入されて、さらにある程度の教育を受けた結果、教育、商業、事務などで就業して両親の地位以上に出世し、1806年にはクロシャニ(ro)のヴァタフ(山道)監督に任命された。トゥドールはワラキア蜂起を起こすまでその地位に留まった一方で同じ年に勃発した露土戦争 (1806年) (en) にルーマニア人で構成されたパンドゥーリ(民兵)を率いてロシア軍に参加、この戦争で功績を挙げたトゥドールは聖ウラジーミル勲章 (en) を授与した上で中尉に昇進、ロシア軍に庇護された。露土戦争参加中、トゥドールは後にセルビア蜂起に加わるセルビア人頭目らと関係を持つことになった。 露土戦争以降、トゥドールは商業活動を始め、トランシルヴァニア、ブダペスト、ウィーンを訪れることがあったが、1814年から1815年にかけてウィーンに滞在した際、ロシア皇帝の側近であった後のギリシャ初代大統領イオアニス・カポディストリアスなどと関係を結んでいた。 この頃、ワラキアではオスマン帝国による支配、いわゆるファナリオティスたちの統治による不満が高まっていた。そのため、ワラキアでは1816年にオスマン帝国からの支配を脱却するための秘密組織が結成され,150人ほどの規模となっていた。 1814年、ギリシャ人らがオスマン帝国からの独立を目指す組織、フィリキ・エテリアが結成されるとオスマン帝国からバルカン半島のキリスト教系諸民族を独立させるために彼らの蜂起を扇動した。そして1820年、スペイン、イタリアで革命運動が勃発するとフィリキ・エテリア指導者アレクサンドル・イプシランティスはワラキア、モルダヴィア両公国で蜂起することを選択した。トゥドールはフィリキ・エテリアには参加しなかったが、これに合わせて蜂起することを承諾した。
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