保守化と非合法活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 14:37 UTC 版)
「アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)」の記事における「保守化と非合法活動」の解説
オックスフォードでの法案成立が失敗に終わると、シャフツベリはロンドン市民の与論を追い風に排除法案を成立させようと、市民への訴えかけを強めた。しかし機先を制したのはチャールズ2世率いる政府のほうで、シャフツベリを大逆罪の容疑で逮捕し、ロンドン塔に送ったのである。 「カトリックのさまざまな陰謀の背後で、ヨーク公ジェームズが糸を引いている」という噂が人為的に広められたのは確かであったが、政府はそれをシャフツベリに負わせようとした。もとより確たる証拠もなく釈放となったが、時期を逸して雰囲気が保守反動にさしかかりつつあったこと、そして公職復帰への道を閉ざしたという点で、十分に効果的な戦術だった。政治家生命を絶たれたシャフツベリには、もはや非常手段に訴えるしか「カトリックの魔手からイングランドを救う」道は残されていなかった。 折しもチャールズ2世はたびたび病に臥せるようになり、時勢は待ったなしの状況になる。シャフツベリらホイッグは秘密の会合を重ね、モンマスを擁してロンドンをはじめイングランド各地で一斉に軍事蜂起する計画を立てたが、実行の方法で内部でもめているうちに当局にばれてしまい、1682年にモンマスが逮捕されて計画は水泡に帰した。シャフツベリら関係者はお尋ね者となり、ジェームズの国王即位は既定の路線となった。ジェームズが即位するのはそれから3年後、1685年のことである。
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