保守合同と急逝とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 保守合同と急逝の意味・解説 

保守合同と急逝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:00 UTC 版)

緒方竹虎」の記事における「保守合同と急逝」の解説

1955年昭和30年1月の「天の声解散」による第27回衆議院議員総選挙で、鳩山与党日本民主党185議席単独過半数を得ることが出来ず緒方自由党112議席だった。この選挙結果は、与党民主党保守合同なしで政局運営行っていくことが困難であることを示していた。そのため、自由党民主党による保守合同論の気運が再び高まり見せる中、緒方はこれを積極的に推進した新党総裁をめぐる難航した協議結果総裁代行委員による集団指導体制落ち着いた11月15日自由民主党結党され、緒方鳩山の両党総裁と、三木武吉大野伴睦の両党総務会長の4人が総裁代行委員就任した。 しかし、同年12月全国各県結成された党支部結成大会巡回旅行睡眠不足過労続き途中でひいた風邪こじらせて12月25日帰京してからは静養つとめたが、翌1956年昭和31年1月8日心臓発作起こした。それでも1月25日国会再開される登院自民党代議士会にも出席し1月27日福岡県人会にも出席したが、翌1月28日東京都品川区五反田自宅急性心臓衰弱のため急逝した67歳緒方死去によって、4月5日実施され自民党総裁公選では鳩山一郎初代総裁選出された。総裁公選となれば旧民主党が「反吉田」の寄り合い所帯のため緒方流れ可能性のある票も少なくなかったのに対し、旧自由党の方が結束力固く緒方初代自民党総裁選出される可能性高かった同年末に鳩山は、日ソ国交正常化花道として、後継者指名せず退陣表明し岸信介石橋湛山石井光次郎緒方派継承者)による総裁公選が行われた。緒方急死なければ戦後政治史歩み大きく変わったと言われる所以である。また後任石橋病気短期退陣したのち、田中角栄登場まで15年余り、岸・池田佐藤官僚出身者3名が総理総裁となった言論界象徴として左派からもその人格・識見肯定的に評価され一方で吉田内閣時代1952年昭和27年)の東南アジア歴訪途上中華民国国民政府拠る台湾訪問総統蔣介石謁見し、日華軍事同盟言及したり、前述のように1954年昭和29年)、戦前情報局総裁経験から政府直属情報機関設置構想打ち出したしたため当時ジャーナリズム主流派からは「特高言論統制復活」と揶揄された。

※この「保守合同と急逝」の解説は、「緒方竹虎」の解説の一部です。
「保守合同と急逝」を含む「緒方竹虎」の記事については、「緒方竹虎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「保守合同と急逝」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「保守合同と急逝」の関連用語

保守合同と急逝のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



保守合同と急逝のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの緒方竹虎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS