1923年10月の武装蜂起計画をめぐって
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「エルンスト・テールマン」の記事における「1923年10月の武装蜂起計画をめぐって」の解説
1923年秋にコミンテルンが再び暴力革命方針へ転換、これを受けてブランドラー指導部は「統一戦線戦術」「労働者政府」の方針と組み合わせた武装蜂起計画を策定。その計画に基づき、1923年10月にザクセン州やテューリンゲン州の社民党左派政権に共産党員を入閣させたうえで、中部ドイツから革命軍事行動を起こす準備を開始した。 事態を危険視したベルリン政府は10月20日にも大統領緊急令によりザクセン政府の解任を宣言し、国防軍をザクセンへ出動させた。共産党はこれに対抗してゼネストと武装闘争を決定したが、ケムニッツの会議で社民党左派から武装蜂起の同意を得られなかったため、共産党も退却を決定するしかなくなった。ケムニッツ会議が行われている間、武装蜂起命令書を携えた伝令たちが会議室の前で決定を待っていたが、会議室から出てきたテールマンは独断で「行け!出発!順番に!」と指示して伝令たちを走らせた。これを知ったブランドラーは伝令たちを追いかけ、駅で引き留めたが、ハンブルクへの伝令だけは間に合わず、10月24日から26日にかけてハンブルクで数百人の共産党員の武装蜂起が起きた。しかしこの蜂起は警察によってただちに鎮圧された。 その後、国防軍はさしたる抵抗にあうこともなく10月29日にザクセン首都ドレスデンへ入城し、10月30日にザクセン州政府を解体。数日後にはテューリンゲン州政府も同様の末路をたどった。共産党の蜂起計画は完全な失敗に終わった。
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