ドイツ留学と民初の活動
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南潯正蒙学堂、南潯公学を経て、1908年(光緒34年)秋に上海同済徳文医学校に入学した。在学中の1911年(宣統3年)に辛亥革命が勃発すると、上海で革命派の中国敢死団に加わっている。1912年(民国元年)、同済医工専門学校と改組された学校に復学し、電機系で学んだ。 1914年(民国3年)に卒業後、張静江の資金援助を受けてドイツへ留学し、ベルリン工業大学で冶金を学ぶ。しかし第一次世界大戦の影響もあって学業を続けることができず、1917年(民国6年)にいったん帰国して国立北京大学でドイツ語教官となったが、まもなくスイスへ再び留学し、ベルン大学に入学する。1920年、ドイツに戻ってベルリン大学で地質学を学び、1922年に哲学博士号を取得した。 1924年(民国13年)春に帰国し、北京大学に復帰して地質系教授兼ドイツ語教官となった。しかし1926年(民国15年)3月に北京での学生デモが北京政府に武力鎮圧される事件(三・一八惨案)が起きると、朱家驊は学生デモの責任者とみなされ、北京政府に指名手配されてしまう。そのため朱は故郷に逃げ戻り、7月に国立広東大学地質系教授主任となる。10月、広東大学が国立中山大学に改組されることに伴い、朱は中山大学委員会代理委員長に任ぜられた。
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