ドイツ留学、特効薬開発へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 06:35 UTC 版)
「秦佐八郎」の記事における「ドイツ留学、特効薬開発へ」の解説
ドイツ留学、ベルリンのロベルト・コッホ細菌研究所でワッセルマンの下、免疫の研究をして1年を過ごした。その後、モアビット (Moabit) 市立病院に移ってヤコビー博士の下で数ヶ月間研究する。ヤコビー博士もエールリッヒの弟子だったので、彼を通じてエールリッヒが所長を務めるフランクフルトの国立実験治療研究所へ移れるように頼んでもらった。ヤコビー博士の二度の手紙では芳しい結果が得られなかったため、秦は自ら手紙を書き、ベルリンを出発。10日間ほど南ドイツの大学を回った後、荷物を駅に預けたままでフランクフルトの研究所へ直行した。エールリッヒのもとに案内されると、彼は次のように語ったという。 「あなたの研究室もあなたを助けてくれる助手もすで用意してある。今日から研究に取りかかるのだ」 1909年6月、科学者ベルトハイムが合成した砒素製剤606号と名付けられた試料(ヒ素化合物ジオキン・ジアミド・アルゼノベンゾール)の効果と急性毒性を、秦は動物実験し、その卓れた効果が確認された。エールリッヒは6月10日にこの薬の製造特許を申請し、同日発行された。1910年4月、第27回ドイツ内科学会で、エールリッヒは新しい砒素化合物製剤606号の梅毒に対する化学療法の総論を、秦は動物実験を、シライバーおよびホッペは梅毒患者への臨床治験の成績を共同して発表した。1910年にエールリッヒ、秦共著のドイツ語書『スピロヘーターの実験化学療法』がベルリンで刊行された。 1910年にドイツの製薬会社ヘキスト (Höchst) は、この薬をサルバルサン(ラテン語でSalvareは「救う」の意味)と名づけ、製造販売した。同年5月27日、秦はコッホの臨終に立会い、その後日本に帰国した。当初、日本はこの薬をドイツから輸入していた。
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