ドイツ物理学の代表
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「マックス・プランク」の記事における「ドイツ物理学の代表」の解説
プランクは第一次大戦の終戦後も、ドイツ科学の世界的地位を守るため、アカデミーでの会議を継続させていた。しかしドイツ経済は混乱を極め、財源不足は深刻だった。フリッツ・ハーバーと、前プロイセン文化相のフリードリヒ・シュミット=オットは、ドイツ科学の経費調達のための地域・学問・政治的派閥を越えた組織となるドイツ科学救援連合(de:Notgemeinschaft der Deutschen Wissenschaft)の案を考え、プランクもこれに協力した。この組織は1920年10月30日に発足した。プランクは一委員として、中央委員会や、日本の星一からの寄付金を運用する星基金運用委員会、そして、ゼネラル・エレクトリック社などからの寄付金を運用する電気物理学委員会に所属した。電気物理学委員会は量子力学分野の研究を支援した。この支援は、ヴェルナー・ハイゼンベルクやマックス・ボルンらによる量子論の理論的研究の助けとなった。 プランクはこれに加え、1920年代に各種の委員会など数々の要職を歴任し、ドイツ学界の重鎮となっていた。大学では、講義や委員会に加え論文も発表したが、初期のころのような重要な論文を発表することは無くなった。1926年10月1日、68歳のプランクはベルリン大学教授職を退職し、後任をエルヴィン・シュレーディンガーにゆずった。ただし退職後の1929年から1930年にかけても週4コマの講義を実施し、1932年時点においても大学内の委員にはなっている。 1929年、博士号取得50周年が祝われ、同年にマックス・プランク・メダルが創設された。第1回目はプランク本人と、アインシュタインに贈られた。 1930年6月10日、カイザー・ヴィルヘルム協会会長のアドルフ・フォン・ハルナックが死亡した。同年7月、協会の評議会は、次の会長としてプランクを選出した。プランクはドイツ科学救援連合などいくつもの職責を抱えていたため、会長就任に乗り気でなかったが、考えた末に引き受けることにした。プランクは、ドイツ科学研究の代弁者、ドイツ物理化学界の長老などとみなされるようになった。
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