ドイツ王国の成立とは? わかりやすく解説

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ドイツ王国の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 17:51 UTC 版)

神聖ローマ帝国」の記事における「ドイツ王国の成立」の解説

イタリアベレンガーリオ1世治めていた時代911年東フランク王国ではルートヴィヒ4世嗣子無く死去しカロリング朝断絶したゲルマン風習により、貴族による選挙で王が決められた。王に選ばれたのはフランク人貴族であるコンラート1世若王)だった。こうしてコンラディン朝始まったものの、918年コンラート1世嫡子無く死去したため一代限り断絶した。後を継いだのはザクセン人ハインリヒ1世リウドルフィング家であったハインリヒ1世によってザクセン朝始まったことにより、王権フランク人の手離れたこのため東フランク王国は単に「王国」と呼ばれるようになり、その王も単に「王」とのみ呼ばれるようになった(なお、ハインリヒ1世女系ルートヴィヒ1世敬虔帝の玄孫にあたりカール大帝の血は受け継いでいる)。国号すらはっきりとしない王国」は100年上の時間をかけてやがてドイツ王国呼ばれるようになり、帝国構成する3王国ドイツ王国ブルグント王国およびイタリア王国)の1つとして位置づけられることとなる。一般的にはコンラート1世即位をもってカロリング朝東フランク王国から、独自のドイツ王国転換したとされるルートヴィヒ4世幼童王は父王アルヌルフ死んで王位継承した時点6歳前後であり、貴族たちによる摂政団が組織された。摂政団はマジャール人侵入苦しめられ907年以降には東方領土壊滅して摂政2名を失っている。西フランク王国援軍得てアルプス山脈北側高原でようやくマジャール人撤退させた。911年幼童王は僅か17歳前後死去した嗣子がなく、東フランクカロリング朝断絶した貴族による選挙が行われ、王位アルヌルフ外孫であるコンラディン家フランケンコンラート1世30歳前後継承したコンラート1世若王国内統制をうまくとることができなかった。東フランク王国フランケンシュヴァーベンバイエルンザクセンロートリンゲンロタリンギア)といった部族公領連合国家となっていたが、まずロートリンゲン貴族たちが西フランク王シャルル3世(単純王)を自分たちの王として擁立した結局ロートリンゲン西フランク奪われ若王統制勢力弱めた912年からはザクセン公ハインリヒ1世対立することとなり、シュヴァーベンバイエルンとの折り合いもつかず内戦となった918年若王死の床にあった王国の分裂を防ぐため、最も強大な勢力である宿敵ザクセン公ハインリヒ1世敢えて後継者指名したのち、37歳前後没したハインリヒ1世王は解体しかけていた王国再統一した。919年フリッツラー会合40歳前後ハインリヒ1世ザクセン人フランク人フランケン人)によって新国王に選出されザクセン朝オットー朝 (en) 、リウドルフィング朝)が開かれた。捕王はまずシュヴァーベンバイエルン侵攻し臣従させた。921年西フランクの単純王は捕王を同格の「東フランク王」と認めたボン条約)。その後西フランク混乱状態に陥った925年、捕王は若王時代西フランク奪われていたロートリンゲン奪回した東方ではマジャール人対す城塞整備し、さらにスラブ諸族を制圧したイタリアではやはりマジャール人対策功績上げたユーグ治世であり、帝国全体東方への防備充実してきている。929年、捕王は王令を出して次男オットー後継者指名したその際王権王国単独相続定めフランク王国以来均等相続原則否定した936年7月2日、捕王は狩り最中卒中倒れ、メンレーベン(Memlebem)の王宮60歳前後死去した生前指名通り23歳オットー1世が後を継いだ

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ドイツ王国の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 16:25 UTC 版)

ドイツ王国」の記事における「ドイツ王国の成立」の解説

東フランク王国からドイツ王国への形成は、東フランク王国フランク人以外のアレマン人バイエルン人チューリンゲン人、ザクセン人フリース人などの定住地まで次第領域を拡げていく長期過程の中で、多く段階経て進み同時代人はほとんど意識していなかったと考えられている。このため、ドイツ王国の成立時期に関しては、議論分かれるところであり、具体的に述べることは困難とされている。 ドイツ王国の成立過程における重要な事柄として、843年ヴェルダン条約による東フランク王国成立911年ルートヴィヒ4世死によるカロリング朝断絶コンラート1世国王選出919年の非フランク人であるザクセン人ハインリヒ1世国王選出、そして936年オットー1世国王即位により王国分割慣例が完全に廃止されアーヘン即位式に全ドイツ部族代表者参加したことが挙げられる。シュルツェはドイツ王国東フランク王国区別する特徴としておよそ次の項目を挙げており、これをもとにドイツ王国への移行おおよそザクセン朝の王たちによってなされ、10世紀にはドイツ王国成立していたと結論づけている。 カロリング家断絶による王国分割慣行廃止 フランク人以外の部族国王選出への参加とそれらの民族含めた王国形成 オットー1世アーヘンでの戴冠などのカロリング朝王国への理念回帰 部族大公領の形成 国王による教会支配の強化 また、9世紀末から王国文化的活動中心地となったザンクト・ガレン修道院マインツにおいてはフランク語由来言語「lingua theodisca」に代わり、それと原ゲルマン語融合した言語「lingua teutonica」が用いられるようになり、この言語面での変化東フランク王国からドイツ王国への移行段階一つとらえられている。

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