ドイツ王国の成立
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イタリアをベレンガーリオ1世が治めていた時代の911年、東フランク王国ではルートヴィヒ4世が嗣子無く死去し、カロリング朝が断絶した。ゲルマンの風習により、貴族による選挙で王が決められた。王に選ばれたのはフランク人の貴族であるコンラート1世(若王)だった。こうしてコンラディン朝が始まったものの、918年にコンラート1世が嫡子無く死去したため一代限りで断絶した。後を継いだのはザクセン人のハインリヒ1世(リウドルフィング家)であった。ハインリヒ1世によってザクセン朝が始まったことにより、王権はフランク人の手を離れた。このため、東フランク王国は単に「王国」と呼ばれるようになり、その王も単に「王」とのみ呼ばれるようになった(なお、ハインリヒ1世は女系でルートヴィヒ1世敬虔帝の玄孫にあたり、カール大帝の血は受け継いでいる)。国号すらはっきりとしない「王国」は100年以上の時間をかけてやがてドイツ王国と呼ばれるようになり、帝国を構成する3王国(ドイツ王国、ブルグント王国およびイタリア王国)の1つとして位置づけられることとなる。一般的にはコンラート1世の即位をもってカロリング朝の東フランク王国から、独自のドイツ王国へ転換したとされる。 ルートヴィヒ4世幼童王は父王アルヌルフが死んで王位継承した時点で6歳前後であり、貴族たちによる摂政団が組織された。摂政団はマジャール人の侵入に苦しめられ、907年以降には東方の領土が壊滅して摂政2名を失っている。西フランク王国の援軍を得て、アルプス山脈北側の高原でようやくマジャール人を撤退させた。911年、幼童王は僅か17歳前後で死去した。嗣子がなく、東フランクのカロリング朝は断絶した。貴族による選挙が行われ、王位はアルヌルフの外孫であるコンラディン家のフランケン公コンラート1世が30歳前後で継承した。 コンラート1世若王は国内の統制をうまくとることができなかった。東フランク王国はフランケン、シュヴァーベン、バイエルン、ザクセン、ロートリンゲン(ロタリンギア)といった部族公領の連合国家となっていたが、まずロートリンゲンの貴族たちが西フランク王シャルル3世(単純王)を自分たちの王として擁立した。結局、ロートリンゲンは西フランクに奪われて若王は統制勢力を弱めた。912年からはザクセン公ハインリヒ1世と対立することとなり、シュヴァーベンやバイエルンとの折り合いもつかず内戦となった。918年、若王は死の床にあった。王国の分裂を防ぐため、最も強大な勢力である宿敵ザクセン公ハインリヒ1世を敢えて後継者に指名したのち、37歳前後で没した。 ハインリヒ1世捕鳥王は解体しかけていた王国を再統一した。919年、フリッツラーの会合で40歳前後のハインリヒ1世はザクセン人とフランク人(フランケン人)によって新国王に選出され、ザクセン朝(オットー朝 (en) 、リウドルフィング朝)が開かれた。捕鳥王はまずシュヴァーベンとバイエルンに侵攻して臣従させた。921年に西フランクの単純王は捕鳥王を同格の「東フランク王」と認めた(ボン条約)。その後、西フランクが混乱状態に陥った925年、捕鳥王は若王時代に西フランクに奪われていたロートリンゲンを奪回した。東方ではマジャール人に対する城塞を整備し、さらにスラブ諸族を制圧した。イタリアではやはりマジャール人対策で功績を上げたユーグの治世であり、帝国全体で東方への防備が充実してきている。929年、捕鳥王は王令を出して次男のオットーを後継者に指名した。その際に王権と王国の単独相続を定め、フランク王国以来の均等相続の原則を否定した。936年7月2日、捕鳥王は狩りの最中に卒中で倒れ、メンレーベン(Memlebem)の王宮で60歳前後で死去した。生前の指名通り、23歳のオットー1世が後を継いだ。
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ドイツ王国の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 16:25 UTC 版)
東フランク王国からドイツ王国への形成は、東フランク王国がフランク人以外のアレマン人、バイエルン人、チューリンゲン人、ザクセン人、フリース人などの定住地まで次第に領域を拡げていく長期の過程の中で、多くの段階を経て進み、同時代人はほとんど意識していなかったと考えられている。このため、ドイツ王国の成立時期に関しては、議論が分かれるところであり、具体的に述べることは困難とされている。 ドイツ王国の成立過程における重要な事柄として、843年のヴェルダン条約による東フランク王国の成立、911年のルートヴィヒ4世の死によるカロリング朝の断絶とコンラート1世の国王選出、919年の非フランク人であるザクセン人のハインリヒ1世の国王選出、そして936年のオットー1世の国王即位により王国分割の慣例が完全に廃止され、アーヘンの即位式に全ドイツ部族の代表者が参加したことが挙げられる。シュルツェはドイツ王国と東フランク王国を区別する特徴としておよそ次の項目を挙げており、これをもとにドイツ王国への移行はおおよそザクセン朝の王たちによってなされ、10世紀にはドイツ王国は成立していたと結論づけている。 カロリング家の断絶による王国分割の慣行の廃止 フランク人以外の部族の国王選出への参加とそれらの民族を含めた王国の形成 オットー1世のアーヘンでの戴冠などのカロリング朝王国への理念回帰 部族大公領の形成 国王による教会支配の強化 また、9世紀末から王国の文化的活動の中心地となったザンクト・ガレン修道院やマインツにおいては、フランク語由来の言語「lingua theodisca」に代わり、それと原ゲルマン語の融合した言語「lingua teutonica」が用いられるようになり、この言語面での変化も東フランク王国からドイツ王国への移行段階の一つととらえられている。
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