民初の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/07 03:45 UTC 版)
蝋燭売りの家庭に生まれた。劉成勲は、四川武備学堂速成班を卒業して四川の新軍に加入する。後に錫良の推薦により東三省総督趙爾巽の下に配属された。辛亥革命の際には、劉も部隊を率いて奉天(現在の瀋陽)の革命派に参加している。 1912年(民国元年)3月、劉成勲は四川省に戻り、統制劉存厚が率いる四川第4鎮の参謀長に任命された。同年7月、四川都督尹昌衡のチベット出征に参戦し、軍功をあげた。1914年(民国3年)、川辺鎮守使張毅から討逆軍総司令に任命され、反乱を起こした陳歩三の部隊を鎮圧している。 1916年(民国5年)12月に護国戦争(第三革命)が勃発すると、劉成勲は雅安で護国軍に呼応する。劉存厚から第2師第1混成旅旅長兼左翼総司令に任命された。そして蔡鍔率いる護国軍第1軍に合流し、北京政府軍との戦いで軍功をあげた。続く1917年(民国6年)における、劉存厚、羅佩金(雲南軍)、戴戡(貴州軍)の三つ巴の戦いでは、劉成勲は劉存厚を補佐して、その勝利に貢献している。1918年(民国7年)1月、第21師第22混成旅旅長に任命された。
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