民初外交での活躍
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中華民国成立後の1912年(民国元年)3月、唐紹儀が民国最初の内閣を組織し、その翌月に施肇基は交通総長に任命された。しかし、袁世凱の干渉に耐えかねた唐は6月に辞職に追い込まれ、施もまた唐に従った。1914年(民国3年)6月、駐英公使に任命され、以後7年間同職にあった。1919年(民国8年)のヴェルサイユ会議にも代表団として出席する。山東問題などへの反発から、施もヴェルサイユ条約調印拒否に賛成している。 1921年(民国10年)2月、施肇基は、顧維鈞と役職を入れ替わる形で駐米公使に異動する。同年から開始されたワシントン会議にも、施は全権代表の1人として参加した。このときの施は、顧らとともに不平等条約撤廃、租借地返還、関税自主権回復などを目指し、列強を相手に懸命に交渉している。しかし、列強も譲らず、これらの実現はならなかった。1920年(民国11年)2月、北京政府の命もあって、施が中国を代表して九カ国条約に調印した。 帰国後の1923年(民国12年)1月、張紹曽内閣で外交総長に任命される。ところが翌月、参議院議員を接待するための宴席を設けようとしなかった、という理由により、参議院が施の任命を拒否し、外交総長から罷免に追いやられてしまった。3月、駐米公使に再任される。1926年(民国15年)5月には顔恵慶内閣で外交総長に任命された。しかし、短期間で顔内閣が崩壊したため、やはりすぐに駐米公使に復帰した。
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