山東問題
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山東問題(さんとうもんだい または しゃんとんもんだい、英語:The Shandong ProblemまたはShandong Question、簡体字中国語:山东问题、ピンイン:Sāndōng wèntí)は、ヴェルサイユ条約(ベルサイユ条約)第156条をめぐる論争。 1919年には山東半島の利権を扱った。
概要
ドイツの山東半島租借
日清戦争後、列強は次々と清朝政府に圧力をかけて租借地を獲得、その中のドイツは山東半島南側の膠州湾(その湾頭の青島を含む)を租借した。ドイツもまた鉄道敷設権や鉱山採掘権などの権益を認められ、山東省を勢力圏としていった。20世紀に入り帝国主義諸国間の中国利権をめぐる衝突は、満州をめぐっては日露戦争となって爆発した。その間、列強が獲得していた利権に対して中国民衆の中から利権回収運動が始まり、その運動は次第に民族的な自覚を高め、ついに1911年の辛亥革命で清朝が倒れ、新たに中華民国が成立する。しかし、革命後の実権を握った袁世凱とその後継政権である軍閥政府は、国内の孫文などの第二革命を抑えようとしていたため外国資本の援助を受けてており、外国の要求に妥協し、問題を深刻にしていった。[1]
第一次世界大戦
第一次世界大戦中(1914年~1918年)、中国は、1914年に日本が占領するまでドイツ帝国に属していた山東半島の膠州湾租借地を中国に返還することを条件に連合国を支援した。第一次世界大戦が始まると、ドイツの権益を奪う好機と考えた日本政府は、日英同盟を口実にドイツに宣戦布告して第一次世界大戦へ参戦、青島に上陸、占領した。翌1915年、日本政府は二十一カ条の要求を中国政府に突きつけ、ドイツ権益の全面的な継承を認めさせようとした。中国はドイツの保有地に対する日本による管理を認めるなど、日本の当初の二十一ヵ条の要求のうち13項目に渋々同意し、イギリスとフランスは日本がこれらの保有地を保持することを約束した。
パリ講和会議
1915年と1918年に日本の条件に正式に合意したにもかかわらず、中国は1919年のパリ講和会議で、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンの強力な支援を受けて、ドイツの保有地の譲渡を非難した。 駐フランス中国大使顧維均は、キリスト教徒がエルサレムを譲歩するのと同様に、中国は中国最大の哲学者である孔子の生誕地である山東省を放棄することはできないと述べた。 彼は約束された山東省の返還を要求したが、無駄だった。イギリス、フランスは日本の大戦参戦の条件で中国大陸での利権拡大に反対しないという密約[2]があったため、中国の要求を取り上げなかった。アメリカはすべての大国から孤立していることに気づき、日本、イギリス、フランスの要求に同意した。中国国民は最終的な条約の第156条に対する中国人民は激怒し、中国政府が売国的であると非難し、ウィルソンの約束が果たされなかったことに失望した。それは1919年5月4日のデモ、五・四運動として知られる文化運動につながった。 その結果、顧維均は条約への署名を拒否した。ヴェルサイユ条約第156 条は、膠州湾の領土および 1898年の清独条約によって取得された権利を中国に返還するのではなく、大日本帝国に譲渡するものだった。袁世凱政府がその大半を受諾したことから、中国民衆の中に激しい反発が起こり、さらに日中間の対立に他の帝国主義列強が関与して国際問題としての山東問題に発展していく。[要出典]
中国がヴェルサイユ条約への署名を拒否したため、1921年にドイツとの別途の平和条約が必要となった。山東紛争は 1922年のワシントン海軍会議中にアメリカによって調停された。 中国の勝利により、山東省の日本の租借地は九カ国条約によって中国に返還された。 しかし、日本は鉄道と州全体の経済的優位性を維持した。
その後
1927年から1928年にかけて中国統一を目指して進行中の蔣介石の率いる国民革命軍の北伐軍によってこの地域での支配が脅かされたとき、軍閥軍は次々と敗北したが、帝国主義諸国はそれぞれ軍隊を派遣して権益の保護にあたった。日本でも積極外交を掲げた田中義一内閣は、北伐に伴う混乱からの日本人居留民保護を名目に1927年5月以後、3度にわたる山東出兵を行った。1928年4月には国民革命軍との武力衝突(済南事件)が起こった。日本軍は1929年に撤兵したが、中国での反日感情はさらに強くなった。[1]
山東問題の経緯
出典: [1]
- 1898年: ドイツが膠州湾を租借。山東省に権益を獲得した。アメリカは翌年、門戸開放宣言。
- 1914年: 第一次世界大戦。日本、ドイツに宣戦し、青島に出兵。
- 1915年: 青島攻略戦の処理として日本が二十一カ条の要求を提示、山東省ドイツ権益の継承その他の権益拡大を突きつける。中国の袁世凱政府がその大半を承認すると国民的な反対運動が起きる。一部は撤回され1915年の日華条約として締約。
- 1917年: 石井・ランシング協定。アメリカは日本の山東省権益を認め、日本はアメリカの門戸開放などの要求を認める。しかし、アメリカは次第に日本の中国大陸進出を警戒するようになる。
- 1919年: パリ講和会議開催。中国代表顧維均は、二十一カ条の要求の無効を訴える。しかし、イギリス、フランスは日本の大戦参戦の条件で中国大陸での利権拡大に反対しないという密約があったため、中国の要求を取り上げず。ヴェルサイユ条約でも日本の山東省権益継承が認められた。中国民衆が強く反発し、五・四運動が起こる。中国政府もそれにおされヴェルサイユ条約の調印を拒否した。
- 1921年: 1922年: ワシントン会議開催。国際協調の高まりの中、アメリカ大統領ハーディングの提唱で海軍軍縮と中国・太平洋での利害対立の調停がはかられる。
- 1922年: 九カ国条約締結。中国の主権尊重・機会均等が認められ、それに伴い石井・ランシング協定は破棄され、日本と中国間では「山東懸案解決に関する条約」が締結され、山東省権益の中国返還が決まった。また、中国は加わっていないが、太平洋に関する四カ国条約の成立に伴い日英同盟は破棄された。
- 1927年: 日本が山東出兵。
- 1928年: 国民党軍との武力衝突、済南事件発生。
脚注
関連項目
外部リンク
山東問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 03:41 UTC 版)
詳細は「山東問題」、「膠州湾租借地」、および「対華21カ条要求」を参照 中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団や米国人宣教師の影響で中国に強い関心を持っていたが、日本にはほとんど興味や知識を持っていなかった。 1914年10月31日からの作戦で日本はイギリスとの連合軍によりドイツの膠州湾租借地(青島基地)を攻略(青島の戦い)した後、中華民国に対して21か条の要求をおこないドイツ権益の譲渡を認めさせた。この交渉の過程で1915年に山東権益の譲渡に関して日独間で条約が締結された場合は中華民国が無条件で承認する条約、1917年には山東鉄道経営の日華合弁化を定めた条約を締結した。また本野一郎外相の主導でこの後に英仏と秘密条約を締結し、この権益譲渡は連合国の承認事項となった。アメリカはこの21か条要求が明らかになると強硬に抗議し、1915年および17年の一連の日華条約について不承認の姿勢を取った。さらにシベリア出兵において主力であった日米連合軍が、その後に革命そのものへの干渉を継続しコルチャーク政権に加担しはじめた日本と袂を分かつにおよんで、ウィルソンは決定的に悪印象を持った。 山東半島のドイツ租借地については日本は参戦に際しドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を1914年8月15日に発し、その中で膠州湾租借地(青島)の全部を支那国(中華民国)に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に交付することを要求し ており、租借地そのものの中華民国への返還は当初からの既定路線であった。一方で日本側の真意は決して文面どおりのものではなく 日本政府は租借地および山東権益をドイツから戦時賠償として獲得したのち、租借地については中国に返還し、外国人(日本人)居留地を設営したのち山東ドイツ資産及び商権、膠済鉄道運行権を日本人居留民が継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識の違いがただちに日華間の外交問題となっていた。 原敬首相時代に設置された臨時外交調査会は、本野外相の病死によって英仏との秘密条約の規定が不明になったこともあり、大隈首相が山東占領以前に主張していたとおり、山東権益の対中還付を提案した。原首相も同意し、一部の経済権益を残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益の譲渡を受けた後に中国に返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった。一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助を強調する駐華公使ポール・ラインシュの意見を重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因と考え、原内閣の外交転換を表面的な物としか受け取っていなかった。またランシング国務長官もシベリア出兵以降、対日強硬派の立場を強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されたウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった。また中華民国側はウィルソンの14か条の原則を緩用して、中国に課せられた勢力範囲や治外法権等の撤廃を求める方針であった。このため駐米公使顧維鈞をはじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動を行って、アメリカにおける中国支持の風潮を高めさせた。1918年11月26日に顧維鈞と会談したウィルソンは、中華民国全権との協調を約束した。この状況を見た日本の内田康哉外相は、12月に陸徴祥外交部長と会談し、中国の不平等状態の改善への協力と、講和会議での日華協調行動を合意した。 1919年1月17日、日本は十人委員会で大戦中の日華条約などを根拠として山東権益の日本への無条件譲渡を主張した。翌1月18日、中華民国全権の顧維鈞は日本の山東奪還には謝意を示したものの、ドイツから中華民国への直接還付を主張し(青島租借地の対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文言があること、また1917年の中華民国参戦により対独租借条約が失効したことを根拠とする)、また1915年以降に締約された一連の日華諸条約が苦境の際に結ばれたとしてその無効を主張した。この顧維鈞の主張は1914年の山東攻略以降の重要な懸案でありすでに1915年の対華21カ条要求後の交渉により結論を得たものであったと理解していた日本側は中華民国政府に抗議を行ったが、アメリカおよび中国のマスコミは日本が中華民国政府を脅迫しているという報道をかき立てた。アメリカ代表は日本政府への抗議や中華民国全権に毅然とした対応を取るよう助言を行った。 牧野は日本への譲渡を講和条約に記載させる必要はないと考えていたが、原首相や外交調査会は絶対に譲れないと考えていた。とくに1915年の日華交渉において締約された2条約13交換公文においては満州および内蒙古に関する重要な取決めが含まれており、これら全部の無効化は日本が従来から懸案としてきた満蒙権益と在留日本人の安全について、きわめて不安定な元の状態にもどしかねないものであった。このため「同島(青島)は我武力によりて占領し、また日支条約は支那が参戦前に締結したるものなるに因りて、絶対に我が要求を貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府の最終の決定にして、何等の変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加を蹴ってでも要求を貫徹するよう訓令した。 4月10日、アメリカ全権団は山東権益の直接還付を支持する方針を決定した。ところが1915年の条約を前提とした1918年の日華条約において中華民国が日本側から金銭を受け取っていたため、条約が無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官は山東権益を米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会に移し、しかる後に処理を決定するという案を提案し、ウィルソンもこれに同意した。4月18日、四人会議でウィルソンが日本側にこの提案を説明することが合意された。ウィルソンは日本の牧野・珍田両全権と会談し、山東権益を連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側の強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題と化したため、譲歩は不可能であると述べ、「条約に調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した。一方で日本の外交姿勢が変化していることも説明し、中国における勢力範囲の撤廃にも協力する旨を伝えた。 4月22日の四人会議に日本の牧野・珍田両全権が招待され、山東問題の協議が行われることになった。ロイド・ジョージは英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢をほのめかしたが、講和条約に山東権益譲渡を明記すれば、イギリス帝国内の自治領も同様な提案を行って会議が混乱するとして、日本の理解を求めた。日本全権はこれを拒否し、日華条約にある「中国への義務」が認められなければ、条約に署名できないと明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示することもなく、日本側の山東権益の説明を聞くのみであった。同日午後には中華民国全権を招いた四人会議が開催された。中華民国全権は日華条約の無効と直接還付を再度訴えた。しかしウィルソンの態度は変化しており、条約の神聖性を説き、中国の待遇改善は国際連盟で行うと告げた。ロイド・ジョージも残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日華条約による権益譲渡を行うかしかないと告げた。中華民国全権は「中国はドイツの野望の対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンはドイツの野望は疑いもなく東洋支配を含んでいたと、この見解を却下した。 ウィルソンはフィウーメ問題での自らの対応との違いを嘆いたが、これ以降ウィルソンは日本への無条件譲渡を認めた動きを展開していくことになった。中谷直司によればこのウィルソンの変化は、英仏との秘密条約の強固さと、日本の強硬姿勢に抗しきれなかったためであるとする。ただし、ウィルソンはその後も日華条約を承認せず、日本全権との会談ではその有効性に疑義を呈する発言を行っている。ウィルソンの変化を見たランシングらアメリカ全権内の有力者は日本の調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国を見捨て、極東におけるアメリカの威信を投げ出すよりは、日本を連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢の貫徹を主張した。 4月29日と30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日華条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針が決定された。5月4日、日本全権は日華条約に言及しない形で山東の全権益を中国に還付する旨の声明を行い、ヴェルサイユ条約には山東権益の日本への譲渡が明記されることになった。山東問題での譲歩は、ウィルソンに対する不信感を起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃の材料となるとともに、代表団の一部がウィルソン支持から撤退した。 アメリカはヴェルサイユ条約に署名したがアメリカ上院では条約に対する支持も得られず批准に失敗した。その要因の主たるものは連盟規約における国際紛争への共同対処義務であったが、日華問題の調停が不首尾であったことによるウィルソンへの上院の不信も条約批准失敗につながる一因ともなった とされる。この結果に中国では激しい反発が起き(五・四運動)、中華民国代表もヴェルサイユ条約に調印は行わなかったが、のちサン=ジェルマン条約に署名したことで国際連盟に参加することになった。 講和会議後、二国間での還付交渉を求める日本側に対し、中華民国は国際会議での解決を望み拒否し続けた。これにはアメリカがヴェルサイユ条約の批准を行わなかった事に対する過度な期待があり、顧維鈞など海外公使の意見は悲観的であった。結局山東問題の解決は1922年のワシントン会議まで持ち越されることになる。
※この「山東問題」の解説は、「パリ講和会議」の解説の一部です。
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