山東問題とは? わかりやすく解説

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山東問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/07 23:32 UTC 版)

山東問題さんとうもんだい または しゃんとんもんだい英語:The Shandong ProblemまたはShandong Question、簡体字中国語:山东问题、ピンイン:Sāndōng wèntí)は、ヴェルサイユ条約(ベルサイユ条約)第156条をめぐる論争。 1919年には山東半島の利権を扱った。

概要

ドイツの山東半島租借

日清戦争後、列強は次々と清朝政府に圧力をかけて租借地を獲得、その中のドイツは山東半島南側の膠州湾(その湾頭の青島を含む)を租借した。ドイツもまた鉄道敷設権や鉱山採掘権などの権益を認められ、山東省を勢力圏としていった。20世紀に入り帝国主義諸国間の中国利権をめぐる衝突は、満州をめぐっては日露戦争となって爆発した。その間、列強が獲得していた利権に対して中国民衆の中から利権回収運動が始まり、その運動は次第に民族的な自覚を高め、ついに1911年辛亥革命で清朝が倒れ、新たに中華民国が成立する。しかし、革命後の実権を握った袁世凱とその後継政権である軍閥政府は、国内の孫文などの第二革命を抑えようとしていたため外国資本の援助を受けてており、外国の要求に妥協し、問題を深刻にしていった。[1]

第一次世界大戦

第一次世界大戦中(1914年1918年)、中国は、1914年に日本が占領するまでドイツ帝国に属していた山東半島の膠州湾租借地を中国に返還することを条件に連合国を支援した。第一次世界大戦が始まると、ドイツの権益を奪う好機と考えた日本政府は、日英同盟を口実にドイツに宣戦布告して第一次世界大戦へ参戦、青島に上陸、占領した。翌1915年、日本政府は二十一カ条の要求を中国政府に突きつけ、ドイツ権益の全面的な継承を認めさせようとした。中国はドイツの保有地に対する日本による管理を認めるなど、日本の当初の二十一ヵ条の要求のうち13項目に渋々同意し、イギリスとフランスは日本がこれらの保有地を保持することを約束した。

パリ講和会議

1915年と1918年に日本の条件に正式に合意したにもかかわらず、中国は1919年のパリ講和会議で、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンの強力な支援を受けて、ドイツの保有地の譲渡を非難した。 駐フランス中国大使顧維均は、キリスト教徒エルサレムを譲歩するのと同様に、中国は中国最大の哲学者である孔子の生誕地である山東省を放棄することはできないと述べた。 彼は約束された山東省の返還を要求したが、無駄だった。イギリス、フランスは日本の大戦参戦の条件で中国大陸での利権拡大に反対しないという密約[2]があったため、中国の要求を取り上げなかった。アメリカはすべての大国から孤立していることに気づき、日本、イギリス、フランスの要求に同意した。中国国民は最終的な条約の第156条に対する中国人民は激怒し、中国政府が売国的であると非難し、ウィルソンの約束が果たされなかったことに失望した。それは1919年5月4日のデモ、五・四運動として知られる文化運動につながった。 その結果、顧維均は条約への署名を拒否した。ヴェルサイユ条約第156 条は、膠州湾の領土および 1898年の清独条約によって取得された権利を中国に返還するのではなく、大日本帝国に譲渡するものだった。袁世凱政府がその大半を受諾したことから、中国民衆の中に激しい反発が起こり、さらに日中間の対立に他の帝国主義列強が関与して国際問題としての山東問題に発展していく。[要出典]

中国がヴェルサイユ条約への署名を拒否したため、1921年にドイツとの別途の平和条約が必要となった。山東紛争は 1922年のワシントン海軍会議中にアメリカによって調停された。 中国の勝利により、山東省の日本の租借地は九カ国条約によって中国に返還された。 しかし、日本は鉄道と州全体の経済的優位性を維持した。

その後

1927年から1928年にかけて中国統一を目指して進行中の蔣介石の率いる国民革命軍北伐軍によってこの地域での支配が脅かされたとき、軍閥軍は次々と敗北したが、帝国主義諸国はそれぞれ軍隊を派遣して権益の保護にあたった。日本でも積極外交を掲げた田中義一内閣は、北伐に伴う混乱からの日本人居留民保護を名目に1927年5月以後、3度にわたる山東出兵を行った。1928年4月には国民革命軍との武力衝突(済南事件)が起こった。日本軍は1929年に撤兵したが、中国での反日感情はさらに強くなった。[1]

山東問題の経緯

出典: [1]

  • 1898年: ドイツが膠州湾を租借。山東省に権益を獲得した。アメリカは翌年、門戸開放宣言
  • 1914年: 第一次世界大戦。日本、ドイツに宣戦し、青島に出兵。
  • 1915年: 青島攻略戦の処理として日本が二十一カ条の要求を提示、山東省ドイツ権益の継承その他の権益拡大を突きつける。中国の袁世凱政府がその大半を承認すると国民的な反対運動が起きる。一部は撤回され1915年の日華条約として締約。
  • 1917年: 石井・ランシング協定。アメリカは日本の山東省権益を認め、日本はアメリカの門戸開放などの要求を認める。しかし、アメリカは次第に日本の中国大陸進出を警戒するようになる。
  • 1919年: パリ講和会議開催。中国代表顧維均は、二十一カ条の要求の無効を訴える。しかし、イギリス、フランスは日本の大戦参戦の条件で中国大陸での利権拡大に反対しないという密約があったため、中国の要求を取り上げず。ヴェルサイユ条約でも日本の山東省権益継承が認められた。中国民衆が強く反発し、五・四運動が起こる。中国政府もそれにおされヴェルサイユ条約の調印を拒否した。
  • 1921年: 1922年: ワシントン会議開催。国際協調の高まりの中、アメリカ大統領ハーディングの提唱で海軍軍縮と中国・太平洋での利害対立の調停がはかられる。
  • 1922年: 九カ国条約締結。中国の主権尊重・機会均等が認められ、それに伴い石井・ランシング協定は破棄され、日本と中国間では「山東懸案解決に関する条約」が締結され、山東省権益の中国返還が決まった。また、中国は加わっていないが、太平洋に関する四カ国条約の成立に伴い日英同盟は破棄された。
  • 1927年: 日本が山東出兵
  • 1928年: 国民党軍との武力衝突、済南事件発生。

脚注

  1. ^ a b c 山東省/山東問題”. www.y-history.net. 2023年9月13日閲覧。 [信頼性要検証]
  2. ^ Inc, NetAdvance Inc NetAdvance. “第一次世界大戦|日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典|ジャパンナレッジ”. JapanKnowledge. 2023年9月14日閲覧。

関連項目

外部リンク


山東問題

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 03:41 UTC 版)

パリ講和会議」の記事における「山東問題」の解説

詳細は「山東問題」、「膠州湾租借地」、および「対華21カ条要求」を参照 中華民国を「姉妹共和国」としていち早く承認したウィルソンは、外交団米国人宣教師影響中国強い関心持っていたが、日本にはほとんど興味知識持っていなかった。 1914年10月31日からの作戦日本イギリスとの連合軍によりドイツ膠州湾租借地青島基地)を攻略青島の戦い)した後、中華民国に対して21か条の要求おこないドイツ権益譲渡認めさせた。この交渉過程1915年山東権益譲渡に関して日独間で条約締結され場合中華民国無条件承認する条約1917年には山東鉄道経営日華合弁化を定めた条約締結した。また本野一郎外相主導この後英仏秘密条約締結し、この権益譲渡連合国承認事項となったアメリカはこの21か条要求明らかになる強硬に抗議し1915年および17年一連の日華条約について不承認の姿勢取った。さらにシベリア出兵において主力であった日米連合軍が、その後革命そのものへの干渉継続しコルチャーク政権加担しはじめた日本袂を分かつにおよんで、ウィルソン決定的に悪印象持った山東半島ドイツ租借地については日本参戦際しドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府勧告」を1914年8月15日発しその中で膠州湾租借地青島)の全部支那国中華民国)に還付する目的をもって無償無条件日本帝国官憲交付することを要求し ており、租借地そのもの中華民国への返還当初からの既定路線であった一方で日本側の真意決し文面どおりのものではなく 日本政府租借地および山東権益ドイツから戦時賠償として獲得したのち、租借地については中国返還し外国人日本人居留地設営したのち山東ドイツ資産及び商権膠済鉄道運行日本人居留民継承することを想定しており、青島攻略戦ののちこの認識違いがただちに日華間の外交問題となっていた。 原敬首相時代設置され臨時外交調査会は、本野外相病死によって英仏との秘密条約の規定不明になったこともあり、大隈首相山東占領以前主張していたとおり、山東権益対中還付提案した。原首相同意し一部経済権益残して還付することが決定された。しかしその方法については一度ドイツから権益譲渡受けた後に中国返還する方式をとることになり、講和条約にはドイツから日本側への権益譲渡のみを明記させる方針となった一方ウィルソンは、対日強硬派であり中華民国への援助強調する公使ポール・ラインシュ意見重視しており、日本の外交姿勢を自らの「新外交」を阻害する要因考え原内閣外交転換表面的な物としか受け取っていなかった。またランシング国務長官シベリア出兵以降対日強硬派立場強めていた。こうしたこともあり「すこぶる反日的」と評されウィルソンらの姿勢は、日本との妥協を行う姿勢にはなかった。また中華民国側ウィルソン14か条の原則を緩用して、中国課せられた勢力範囲治外法権等の撤廃求め方針であったこのため駐米公使顧維鈞はじめとする中華民国外交団は、積極的な広報活動行ってアメリカにおける中国支持風潮高めさせた。1918年11月26日顧維鈞会談したウィルソンは、中華民国全権との協調約束した。この状況見た日本内田康哉外相は、12月陸徴祥外交部長会談し中国不平等状態の改善への協力と、講和会議での日華協調行動合意した1919年1月17日日本十人委員会大戦中の日華条約などを根拠として山東権益日本への無条件譲渡主張した。翌1月18日中華民国全権顧維鈞日本の山奪還には謝意示したものの、ドイツから中華民国への直接還付主張し青島租借地の対独租借条約文言に「他国譲渡せず」の文言があること、また1917年中華民国参戦により対独租借条約失効したことを根拠とする)、また1915年以降締約された一連の日華条約苦境の際に結ばれたとしてその無効主張した。この顧維鈞主張1914年山東攻略以降重要な懸案でありすでに1915年対華21カ条要求後の交渉により結論得たものであった理解していた日本側は中華民国政府抗議行ったが、アメリカおよび中国マスコミ日本中華民国政府脅迫しているという報道をかき立てたアメリカ代表日本政府への抗議中華民国全権毅然とした対応を取るよう助言行った牧野日本への譲渡講和条約記載させる必要はないと考えていたが、原首相外交調査会絶対に譲れない考えていた。とくに1915年日華交渉において締約された2条13交換公文においては満州および内蒙古に関する重要な取決め含まれており、これら全部無効化日本従来から懸案としてき満蒙権益在留日本人安全について、きわめて不安定な元の状態にもどしかねないものであったこのため「同島(青島)は我武力によりて占領し、また日支条約支那参戦前に締結したものなるに因りて絶対に我が要求貫徹せしめざるべからず」という考えのもと、「帝国政府最終決定にして、何等変更を許さざる次第に付」、もし容れられない場合には国際連盟への参加蹴ってでも要求貫徹するよう訓令した。 4月10日アメリカ全権団は山東権益直接還付支持する方針決定した。ところが1915年条約前提とした1918年日華条約において中華民国日本側から金銭受け取っていたため、条約無効であるとみるのは困難となっていた。そのためランシング国務長官山東権益米英仏伊日の五ヶ国の管理委員会移ししかる後に処理を決定するという案を提案しウィルソンもこれに同意した4月18日四人会議ウィルソン日本側にこの提案説明することが合意された。ウィルソン日本牧野・珍田両全会談し山東権益連合国全体に渡すという案を提示したが、日本側は中国側強力なプロパガンダにより、山東問題が極東における一大政治問題化したため、譲歩不可能であると述べ、「条約調印することが不可能になるかもしれない」と強硬に拒否した一方で日本の外交姿勢変化していることも説明し中国における勢力範囲撤廃にも協力する旨を伝えた4月22日四人会議日本牧野・珍田両全招待され、山東問題の協議が行われることになったロイド・ジョージ英仏秘密条約をもとに日本支持姿勢ほのめかしたが、講和条約山東権益譲渡明記すれば、イギリス帝国内の自治領同様な提案行って会議混乱するとして、日本理解求めた日本全権はこれを拒否し日華条約にある「中国への義務」が認められなければ条約署名できない明言した。この会談中にウィルソンはかつての管理案を提示するともなく日本側の山東権益説明聞くのみであった同日午後に中華民国全権招いた四人会議開催された。中華民国全権日華条約無効直接還付再度訴えた。しかしウィルソン態度変化しており、条約神聖性を説き中国待遇改善国際連盟で行うと告げたロイド・ジョージ残された対応は旧ドイツ権益のみを譲渡するか、日華条約による権益譲渡を行うかしかない告げた中華民国全権は「中国ドイツ野望対象ではなかった」とまで主張したが、ウィルソンドイツ野望疑いもなく東洋支配含んでいたと、この見解却下したウィルソンフィウーメ問題での自らの対応との違い嘆いたが、これ以降ウィルソン日本への無条件譲渡認めた動き展開していくことになった中谷直司によればこのウィルソン変化は、英仏との秘密条約強固さと、日本強硬姿勢抗しきれなかったためであるとする。ただし、ウィルソンその後日華条約承認せず、日本全権との会談ではその有効性疑義呈する発言行っている。ウィルソン変化見たランシングアメリカ全権内の有力者日本調印拒否は「ブラフ」であるとして「目先の利益のために中国見捨て極東におけるアメリカ威信投げ出すよりは、日本連盟の外に置いた方がいい」と強硬姿勢貫徹主張した4月29日30日に、四人会議における山東問題の最終協議が行われ、日華条約との関係を薄くする形で間接還付を行う方針決定された。5月4日日本全権日華条約言及しない形で山東全権益を中国還付する旨の声明行いヴェルサイユ条約には山東権益日本への譲渡明記されることになった。山東問題での譲歩は、ウィルソン対す不信感起こすこととなり、議会でのウィルソン攻撃材料となるとともに、代表団一部ウィルソン支持から撤退したアメリカヴェルサイユ条約署名したアメリカ上院では条約対す支持得られ批准失敗した。その要因主たるものは連盟規約における国際紛争への共同対処義務であったが、日華問題調停不首尾であったことによるウィルソンの上院の不信条約批准失敗につながる一因ともなった とされる。この結果中国では激し反発起き五・四運動)、中華民国代表もヴェルサイユ条約調印は行わなかったが、のちサン=ジェルマン条約署名したことで国際連盟参加することになった講和会議後、二国間での還付交渉求め日本側に対し中華民国国際会議での解決望み拒否し続けた。これにはアメリカヴェルサイユ条約批准を行わなかった事に対す過度な期待があり、顧維鈞など海外公使意見悲観的であった結局山東問題の解決1922年ワシントン会議まで持ち越されることになる。

※この「山東問題」の解説は、「パリ講和会議」の解説の一部です。
「山東問題」を含む「パリ講和会議」の記事については、「パリ講和会議」の概要を参照ください。

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