五四運動の中で失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 17:27 UTC 版)
1917年(民国6年)1月、曹汝霖は西原亀三との借款交渉に初めて臨んだ。7月、張勲復辟後における段祺瑞内閣の交通総長に再任される。その翌年3月には署理財政総長を兼任した。そして、寺内正毅内閣が派遣してきた西原と、1億数千万円規模の借款交渉(いわゆる「西原借款」)を行っている。これ以降の各内閣で交通総長等の要職を占めた曹は、「新交通系」のリーダーと目された。 1919年(民国8年)、曹汝霖は、銭能訓内閣でも引き続き交通総長をつとめた。このとき、パリ講和会議が開催され、山東問題が焦点の1つとなっている。曹は大総統徐世昌に対し、日本の意思に沿って解決するよう進言した。 しかし、これは中国国内世論の激しい憤激を招くことになる。このため、五四運動において、曹汝霖と陸宗輿(幣制局総裁。前駐日公使)、章宗祥(駐日公使)の3人は、「売国奴」として糾弾された。さらにデモ隊の学生たちが曹の邸宅へ突入する事件が発生する。曹は身を隠したものの、その場に居合わせた章は、学生たちの殴打を受けて負傷し、邸宅も焼き払われてしまった。6月10日、曹ら3人は役職を罷免され、講和会議代表団もヴェルサイユ条約調印を拒否した。
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