五四運動での失脚、その後とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 五四運動での失脚、その後の意味・解説 

五四運動での失脚、その後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 14:00 UTC 版)

章宗祥」の記事における「五四運動での失脚、その後」の解説

翌年袁世凱皇帝即位しようとすると、章は司法総長として、籌安会(袁の皇帝即位支援団体)の違法性否定した袁世凱死後の1916年民国5年6月末まで、章宗祥司法総長地位にあったその後駐日特命全権公使任命され日本赴任する日本では西原借款締結のため西原亀三としばしば交渉し日本政府との間で軍事協定の締結行った(日支共同防敵軍事協定)。さらに山東半島における日本側の権益承認している。また、陸宗輿とともに段祺瑞に対して対独宣戦進言した。 1919年民国8年)のパリ講和会議山東問題等が論点となる。このとき、それまで日本対す譲歩的な態度とってい章宗祥は、曹汝霖陸宗輿とともに売国奴」として世論から糾弾されることになってしまった。同年五四運動において、曹の邸宅デモ隊により焼き払われてしまう。さらに、たまたま帰国して曹の邸宅訪問していた章は、デモ隊から暴行受けて負傷している。結局翌月10日に、章ら3人は役職から罷免されてしまった。 以後章宗祥政界から引退する実業界転じ中華匯業銀行中日合弁銀行総理北京通商銀行総理つとめた北京政府崩壊後は、長期にわたり青島寓居した。1942年民国31年3月王揖唐招請に応じて華北政務委員会諮詢委員をつとめる。また、電力会社董事長理事長)にもなった。日中戦争終結後国民政府により逮捕されたが、まもなく裁判を受けることなく釈放され上海寓居した。中華人民共和国成立後も、そのまま上海に留まっている。 1962年10月1日上海にて病没享年84

※この「五四運動での失脚、その後」の解説は、「章宗祥」の解説の一部です。
「五四運動での失脚、その後」を含む「章宗祥」の記事については、「章宗祥」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「五四運動での失脚、その後」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「五四運動での失脚、その後」の関連用語

1
16% |||||

五四運動での失脚、その後のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



五四運動での失脚、その後のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの章宗祥 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS