五四運動での失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 05:45 UTC 版)
同年秋、陸宗輿は交通銀行股東会長に就任した。翌年1月、曹汝霖が交通銀行総理に就任すると、西原借款の交渉のため、陸が日本に赴いて首相の寺内正毅と会談している。その後、日本側の要望も入れる形で、陸と駐日公使章宗祥は、段祺瑞に対独宣戦を助言した。 1917年(民国6年)8月、西原借款を運用するために中日合弁の中華匯業銀行が成立すると、陸宗輿がその総経理に就任した。翌年10月、段が下野に追い込まれると、陸はその直前に幣制局総裁に任命されている。1919年4月には、察哈爾竜煙鉄鉱公司督弁も兼任した。陸は曹汝霖と連動する形で交通・財務部門で勢力を拡大し、「新交通系」の指導者と目されるようになった。 しかし、西原借款などの親日的政策は国内世論の反発を買うことになった。同年5月の五四運動において陸宗輿は曹汝霖・章宗祥とともに売国奴と糾弾された。そして、デモ隊が曹の邸宅を襲撃し、章を殴打する事件が起きたが、このとき陸は身を隠して難を避けている。6月、陸は政府の職務を罷免された。しかし、中華匯業銀行総理の地位には留任している。 その後の陸宗輿は臨時参政院参政などを歴任し、北京政府崩壊後は天津や北平に寓居した。1939年(民国28年)1月30日に呉佩孚が「和平救国宣言」を発表した際には、陸も和平救国会連盟の構成員として同宣言に連署している。翌1940年(民国29年)3月、南京国民政府(汪兆銘政権)において、行政院顧問に就任した。 1941年(民国30年)6月1日、北平にて病没。享年66(満64歳)。
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