五四運動・日中戦争での活動とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 五四運動・日中戦争での活動の意味・解説 

五四運動・日中戦争での活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:53 UTC 版)

鄭振鐸」の記事における「五四運動・日中戦争での活動」の解説

1917年民国6年)、北京鉄路管理学校入学する1919年民国7年)の五四運動時期に、瞿秋白らと『新社会』の雑誌創刊し、また茅盾沈雁氷)らと民衆戯劇社を創設し月刊誌『戯劇』を創刊するなどして、新文化運動唱導した。 1920年民国9年)、鄭振鐸茅盾葉聖陶葉紹鈞)らと共に発起人として文学研究会を結成し、『文学旬刊』を創刊した。翌1921年民国10年)、鄭は鉄路管理学校卒業し茅盾紹介上海移り商務印書館文学研究叢書編集担当した1922年民国11年)、週刊誌児童世界』を創刊し、その翌年には『小説月報』を創刊している。1925年民国14年9月私立復旦大学講師となり、翌年には省立曁南大学講師となった1927年民国16年3月上海作人公会組織している。 上海クーデター四・一政変)後、政治的圧迫受けた鄭振鐸出国しパリにしばらく在住した。1931年民国20年)に帰国して国立清華大学教授となり、翌年私立燕京大学教授転じた1933年民国22年)からは、月刊誌文学』と季刊誌文学季刊』の編集参加している。1934年民国23年)、上海戻り曁南大学文学院院長となった。またこの時期には、生活書店の『世界文庫』の主編を務め、さらに魯迅との協力で『北平箋譜』を編集した1936年民国25年6月には、葉聖陶と共に発起人として中国文芸協会創設している。 日中戦争抗日戦争勃発後、鄭振鐸中国文芸界救亡協会中国文芸家協会中華全国文芸抗敵総会等に属して抗日言論展開する上海陥落後も鄭敬夫の偽名用い、胡愈之らと復社創設し、『魯迅全集』、『聯共党史』、『レーニン文選』などを刊行した

※この「五四運動・日中戦争での活動」の解説は、「鄭振鐸」の解説の一部です。
「五四運動・日中戦争での活動」を含む「鄭振鐸」の記事については、「鄭振鐸」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「五四運動・日中戦争での活動」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「五四運動・日中戦争での活動」の関連用語

1
18% |||||

五四運動・日中戦争での活動のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



五四運動・日中戦争での活動のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの鄭振鐸 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS