く‐しゅうはく〔‐シウハク〕【瞿秋白】
読み方:くしゅうはく
[1899〜1935]中国の政治家・文学者。江蘇省の人。五・四運動に参加。ソ連に新聞記者として滞在し、帰国後、中国共産党中央委員などを歴任。ロシア文学の翻訳や文芸評論で活躍。国民党軍に逮捕、銃殺された。チュイ=チウパイ。
チュイ‐チウパイ【瞿秋白】
読み方:ちゅいちうぱい
⇒くしゅうはく(瞿秋白)
瞿秋白
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 16:48 UTC 版)
瞿 秋白(く しゅうはく)は、中華民国初期の革命家・散文作家・文学評論家。中国共産党の初期最高指導者の一人である。またの名は双(あるいは霜、爽)。号は熊伯(あるいは雄魄)。弟は瞿昀白・瞿景白・瞿堅白。
- ^ 1903年に瞿賡甫が死去した際、瞿賡甫の遺族が瞿家の邸宅に戻ったため、瞿世瑋の一家は立ち退きを余儀なくされたという。また瞿秋白が12歳の頃、一家が更に貧窮したために常州郊外へと再び転居したという。陳鉄健『従書生到領袖瞿秋白』上海人民出版社、1995年。8-9、30頁
- ^ 司馬璐『瞿秋白伝』自聯出版、1962年。4、9頁
- ^ 当初は北京大学への進学を望んだが学費を払えず、ロシア語専修館入学の前に聴講生をしていたとも言われる。『瞿秋白伝』11-12頁
- ^ 当時のロシアは混乱しており、秋白はロシアの状況に対して失望の感想を漏らしたという。『瞿秋白伝』19-20頁
- ^ 陳独秀は会議に欠席。第三インターナショナルは陳独秀派を警戒し、会議直前まで開催地を明かさなかった。そのため会議に参加したのはわずか13人であった。『瞿秋白伝』55頁
- ^ 『瞿秋白伝』55頁
- ^ 『瞿秋白伝』では臨時中央書記兼中央機関紙『ボルシェビキ』主編とされる。56頁
- ^ こうした蜂起は実際には第三インターナショナルの指示により行われていたとも言われる。『瞿秋白伝』58頁
- ^ 『瞿秋白伝』61頁
- ^ 『瞿秋白伝』68頁では3月。
- ^ これに先立ち、瞿秋白は辞職を中共中央に願い出たが、許可されなかった。また六届四中全会では王明により李立三路線も厳しく批判された。『瞿秋白伝』68頁
- ^ 『瞿秋白伝』78-79頁
- ^ 『瞿秋白伝』84-87頁
- ^ 『瞿秋白伝』107-108頁
- ^ 『瞿秋白伝』94頁
- ^ 中共中央は瞿秋白が長征に加わることを許可しなかったとも言われる。『瞿秋白伝』94-95頁
- ^ アモイ、若しくは潮汕経由で上海に逃れるつもりだったとも言われる。『瞿秋白伝』96-97頁
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