発達と使用の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/19 00:50 UTC 版)
ウェード式やイェール式などが主として外国人が中国語を理解するためのものであるのに対し、新文字は漢字表記に取って代わるものとして作られた点に特徴がある。この目的を達成するために、文字には開発国ソ連のキリル文字ではなく、ラテン文字が使われた。 同じ時期に作られた国語ローマ字(國語羅馬字)(Gwoyeu Romatzyh)が、ラテン文字を同音でも声調の違いにより綴りを変えることにより声調を表すのに対し、新文字は声調を表す工夫をほとんどしていない。その代わり、国語ローマ字が官話にしか使えないのに対し、新文字はそれ以外の中国語方言の表記にも使用することができた。 新文字の基となる北方話ラテン化新文字は、1928年頃、モスクワの中国ソビエト科学調査研究所 (Soviet Scientific Research Institute on China) によって、ウラジオストクやハバロフスクで働く中国系移民などの教育のために開発された。1929年、モスクワ在住の中国人学者瞿秋白 と、ロシアの言語学者コロコロフ (V.S. Kolokolov) (1896~1979)は、北方話ラテン化新文字を改良して、ラテン化新文字の原型を考案した。1931年、さらにそれを改良してソ連の中国学者アレクセーエフ(Vasiliy Mikhaylovich Alekseyev)、ドラグノフ (A.A. Dragunov) 、シュルプリントシン (A.G. Shrprintsin) 、瞿秋白、蕭三、Wang Xiangbao、徐特立らが完成した。このシステムは4年間ほどソ連の中国人移民10万人の間で使われたが、1936年にこれら中国人移民が中国に送還されて終わりを告げた。ただし開発に携わったソ連の学者は、このローマ字化事業が成功に終わったと語っている。 一方、中国本土では郭沫若や魯迅のような知識人が新文字の普及を進め、1940年から1942年には中国共産党が支配していた陝西省、甘粛省、寧夏回族自治区のような中国北部の辺境で使われた。新文字は、中国北部の識字率を上げたシステムとして非常に重要であり、300以上の出版物、総計50万冊に使われた。1944年、中国共産党は、新文字を教えられる教師が不足していることを理由に、公式文書の記録文字としての新文字使用を中止した。その後の1949年11月に中国東北部の鉄道の電信で新文字が使われた例が見つかっている。
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