中共の指導者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 16:48 UTC 版)
1927年4月の上海クーデターにより第一次国共合作が崩壊する中、同年7月12日に陳独秀は職務を停止させられ、張国燾が代理として共産党中央の責任者となった。中国共産党が武漢国民政府とも決別した後の8月7日、新任の第三インターナショナル中国担当のルミナス(Besso Lominadze)とHeinz Neumannにより、八七会議が漢口の日本租界で開催され、陳独秀は正式に罷免された。そして第三インターナショナルの支持を受けて瞿秋白が臨時中央政治局常務委員兼中央指導者に任命された。陳独秀の後を襲い、中国共産党の3人目の最高指導者となったのである。瞿秋白の指導方式は強引な陳独秀のやり方とは異なり、一般的な政治主張を発表するに留まり、党組織と軍事方面では全く権力を振るわなかった。瞿秋白が中央政治局の責任者であった期間(1927年8月から1928年5月)では何度も蜂起(南昌起義・秋収起義など)が行われたが、全て失敗した。 1928年4月、瞿秋白はソ連に向かい、5月にモスクワに到着。6月、瞿秋白はモスクワ郊外にて中国共産党六大に出席した。そこで陳独秀の「右傾妄動主義」とともに、瞿秋白は蜂起失敗の責任を問われ「左傾妄動主義」と批判された。その後もモスクワに留まり、中共の在第三インターナショナル代表団団長を2年にわたり務めた。その間、中国における事実上の中共指導者は李立三と向忠発であった。 1930年7月、瞿秋白は調和的主義な立場を取っていたことを現地の党幹部から「機会主義」「異分子を庇った」として批判され、中共の駐モスクワ代表を罷免された。8月中旬に妻子と共に上海に戻った瞿秋白は、9月に開かれた六届三中全会にて李立三路線を批判した。しかし批判は不徹底なまま終わった。そのため翌1931年1月に上海で開かれた六届四中全会では、逆に瞿秋白が中央指導者の職務を解かれてしまい、中共指導者としては失脚してしまった。
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