21か条
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1945年9月、トルーマンは議会で演説し、経済発展と社会福祉の分野に関する一連の行動案をまとめた、国内立法の21か条計画を提示した。トルーマンが議会に提示した措置は、以下の通り。 失業給付制度の適用範囲と妥当性の大幅な改善。 適用範囲の拡大と、最低賃金の大幅な増加。 平時経済への移行に際して生活費を抑えるための、価格統制の維持拡大。 戦時機関と戦時規制を撤廃する法案(立法に際する困難を考慮した)の起草に向けた現実的方策。 完全雇用を保証する法律の制定。 公正雇用慣行委員会 (FEPC) を常設組織とする法律の制定。 健全な労使関係の維持。 復員兵に職を提供するための、合衆国雇用局の拡充。 農家向け援助の拡大。 自発的入隊の資格に関する規制の撤廃と、軍の志願兵徴募数増加に対する許可。 広汎かつ包括的な住宅法の制定。 連邦研究機関の設立。 大規模な税制改正。 剰余資産の処分の奨励。 中小企業に対する、より高い水準の支援。 復員兵に対する連邦政府からの財政援助の拡充。 公共事業の大幅な拡大、天然資源の保全と確立。 戦後復興の奨励と、武器貸与法の義務の終結。 連邦政府全職員――行政、立法、司法に携わる――を対象とする、適切な賃金表の導入。 終戦後の米国が有する多数の余剰船舶の処分に関する先行き不安を排除するための、船舶の売却促進。 国防上の必要性を満たす上で不可欠な、備蓄物資を取得・保持するための法律の制定。 トルーマンは、法案を議会に送らなかった。議会が法案を起草するものと期待していたのである。しかし、これらの改革案の多くは、保守派が多数を占める議会の反対に遭い、実現しなかった。こうした挫折にもかかわらず、トルーマンは在任中にますます多くの提案を議会に提示し、1948年にはより包括的な法案を打ち出したが、のちにこれが「フェア・ディール」として知られるようになる。1949年1月5日に議会に対して行った1949年の一般教書演説の中で、トルーマンは「我が国の各地域住民や各個人には、公正な扱いを政府に期待する権利がある」と述べた。提案された措置の中には、次のようなものが含まれていた。教育への政府援助、低所得者向けの大幅減税、人頭税の廃止、反リンチ法、FEPCの常設組織化、農場援助計画、公共住宅の増加、出入国管理法案、新たなTVA型公共事業、福祉省の新設、タフト=ハートリー法の廃止、最低賃金の増額(1時間当たり40セントから75セントへ)、国民健康保険、社会保障の適用範囲拡大、40億ドルの増税(国債残高を削減すると共に、これらの計画に融資するため)。 立法上の出来不出来は様々であったが、フェア・ディールは民主党の旗印として国民健康保険を求める際に重要性を保ち続けた。リンドン・B・ジョンソンは、トルーマンの未完の計画の有効性を信じており、この計画は、ジョンソンが1960年代に立法化を成し遂げたメディケアのような「偉大な社会」政策に影響を与えた。フェア・ディールは、連邦政府の役割減少を望む多くの保守政治家から、多くの反対を受けた。一連の国内改革は、米国を戦時経済から平時経済へと変える大きな圧力となった。戦後復興と冷戦期への突入を背景にして、フェア・ディールはフランクリン・ローズヴェルト大統領が実施したニュー・ディール政策のリベラルな伝統を維持拡大しようとした。この第二次世界大戦後、世界恐慌前以来の繁栄を予期していた米国民は、より保守的になっていた。フェア・ディールは、保守的な共和党員や主に南部の保守的な民主党員の連合による反対に直面した。しかし、強硬な反対にもかかわらず、トルーマンの政策課題の一部は議会の承認を得た。例えば、1949年全国住宅法のもとに共和党のロバート・A・タフトが共同提案した公共住宅助成金である。同法は、スラム撤去と低所得者向け住宅81万戸の建設に対し、6年間にわたって資金を供給した。 トルーマンはフェア・ディール計画を実行できなかったが、1940年代後半から1950年代前半にかけて、多くの社会的・経済的進展が起こった。国勢調査報告書が確認したところによると、トルーマン政権下の住宅、教育、生活水準、及び収入は米国史上類のない増加を示した。1953年には失業者がほとんどいなくなり、職に就いている国民の数は6,200万人にのぼった(7年間で1,100万人の増加)。農業収入や配当収入、企業収益は最高を記録し、保険の掛かった銀行の倒産は9年近くの間なかった。社会保障の給付は倍増し、最低賃金も増額された。GI法の結果、トルーマン政権終了時までに800万人の復員兵が大学に通った。同法は、企業、職業訓練、教育、及び多数の帰還兵向けの住宅に対し、補助金を支給した。 これまでも政府の計画によって多数の住宅に対する融資がなされてきたが、その発端はスラムの一掃であった。貧困も大幅に減少した。ある推計が示すところによると、米国民に占める貧困層の割合は、1949年時点では人口の33%であったが、1952年には28%にまで減少した。所得は物価よりも速く上昇した。このことは、実際の生活水準が7年前よりもかなり高いことを意味していた。公民権の分野でも進展があり、中央省庁と軍における人種差別が撤廃されると共に、合衆国公民権委員会(英語版)が設置された。実際、ある歴史家によると、トルーマンは「公民権問題に関する米国の良心を呼び覚ますべく、リンカン以来のどの大統領よりも尽力した」。
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