コミンテルン参加問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 04:40 UTC 版)
「ドイツ独立社会民主党」の記事における「コミンテルン参加問題」の解説
独立社民党からスパルタクス団が離党した後も独立社民党内には右派と左派の対立があった。右派はハーゼ、左派はエルンスト・ドイミヒ(ドイツ語版)を中心とした。この両派はレーテへの評価や労働組合問題で対立していた。 1920年7月のコミンテルン第2回世界大会には独立社民党も出席したが、この大会で独立社民党はコミンテルンからコミンテルン参加の条件として21か条を突き付けられ、コミンテルンへの絶対服従や「改良主義者ならびに日和見的中立主義者」の追放(カウツキーやヒルファーディングなどの幹部の実名を例示していた)などを要求された。 10月の独立社民党大会は、コミンテルンがあらかじめ多数派工作を行っていたため、コミンテルン参加と共産党との合同が決議されたが、右派はこれに反発して独立社民党に留まることになった。コミンテルンの高圧的態度は左派からも反発を招いており、結局共産党へ移った独立社民党員は党員80万人のうち30万人、国会議員では4分の1にとどまった。ドイミヒやヴォルター・シュトェッカー(ドイツ語版)、また後にドイツ共産党党首となるエルンスト・テールマンらが共産党へ移っているが、これまで独立社民党左派の頭目と目されたレーデブールは独立社民党に残っている。
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