コミンテルンとの接触
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/12 06:19 UTC 版)
帰国後は神戸で靴屋を営むかたわら、1920年4月、東京で山川均・堺利彦・荒畑寒村・高津正道らとともにコミンテルン日本支部準備会(日本共産党暫定執行委員会)を結成、翌5月にはコミンテルンへの報告のため上海に派遣され、李東輝ら朝鮮人社会主義者を介して活動資金6,500円を受領したが、多額の金を手にしたことで気が大きくなり、帰国後下関で遊興中、官憲に逮捕された(下関遊興事件)。釈放後の8月、非公式・非合法の共産主義者グループ「暁民共産党」を結成し、9月にコミンテルン極東代表・ヴォイチンスキーの使者として来日した張太雷(中国共産党)と会見し極東諸民族大会への参加を要請されたが、直後、「共産党本部」名義による兵士へのビラ配布で12月22日再び検挙された(暁民共産党事件)ため、翌1922年に開催された会議には参加できなかった。
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