コミンテルンとの確執と転向者への道
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「ヴィリ・ミュンツェンベルク」の記事における「コミンテルンとの確執と転向者への道」の解説
スターリンの指令によりコミンテルンが1928年より社会民主主義との共闘を否定し、社会民主主義と決別して政敵として戦い始めてから、ミュンツェンベルクによって「階級対階級」の掛け声の下「社会ファシズム論」が喧伝された。コミンテルンから1928年に除名されたレフ・トロツキーは、ナチスが伸張していた1930年の時期にドイツ共産党が実践していた「社会ファシズム論」を批判して「ナチスと対抗する社会民主主義と共産党の統一戦線」を呼びかけた。しかし、トロツキーの呼びかけは一顧だにされず、ドイツ共産党がナチスと敵対するどころか同盟を組んでストライキなどを行い、ナチスが政権を獲得、ドイツ共産党は社会民主党諸共非合法化により消滅する。1934年春、フランス共産党内の人民戦線結成を目論んだジャック・ドリオとコミンテルンの公式路線である反社会民主主義路線を堅持したモーリス・トレーズ間で起こったドリオ・トレーズ危機で、ミュンツェンベルクはトレーズを支持し、人民戦線結成に反対した。彼はモスクワへの手紙の中で、雑誌「我々の時代」が社会民主主義と第二インターナショナルへの反対運動を行ったかを記載した。 「反共・ソ連抹殺」を掲げるナチス・ドイツに対する危機感から、スターリンは路線転換を行い、1935年夏の第7回コミンテルン国際会議で反ファシスト戦術が変更され、ミュンツェンベルクはドイツ社会民主党指導部(SOPADE)との仲介者として活躍した。彼はすでにドイツ共産党及びコミンテルンの指導的活動家として連帯政策を、第7回コミンテルン国際会議の前に行っていた。ルテティア・サークルの成功は明らかだったが、彼は共産主義を表立ってって主張しなかった為、ドイツ共産党側で批判が広まった。1936年2月のプラハのドイツ社会民主党指導部との交渉の際、ミュンツェンベルクはドイツ共産党が考える人民戦線の戦術に対して保留の姿勢を取った。不幸にも、その会議にはジャーナリストのゲオルク・ベルンハルトも同席しており、ハインリヒ・マンを通じて、ミュンツェンベルクの党追放へと向かう決定的な事件をモスクワに伝えた。 1936年には、スターリンによる大粛清が行われている中で開廷されたジノヴィエフ、カメーネフ[要曖昧さ回避]などに対するモスクワ裁判に対する慎重な批判を行った。スターリンがコミンテルン活動家の粛清を行う為に直前に設立した国際統制委員会(IKK)に彼の批判に関して呼び出されたが、ミュンツェンベルクは、ヴァルター・ウルブリヒトが何度も進めたにも関わらず、モスクワに行く事を拒否した。 ミュンツェンベルクは人民戦線委員会の為に1937年春まで積極的に活動した。1937年5月にはヴァルター・ウルブリヒトとパウル・メルケルが彼の後を継いだ。その年の秋、彼に対して審理が開始された。 ミュンツェンベルクがコミンテルンといざこざを起こしていると言う噂はマスコミを沸き立たせた。1937年8月2日にヴィルヘルム・ピークがフィリップ・デンゲル及びヴィルヘルム・フロリン及びオーストリア赤色救援会活動家ライトマン(フランツ・クネルト)とコミンテルン人事課長ゲオルク・ブリュックマンと相談した後、ゲオルギ・ディミトロフ( 当時のコミンテルンの総書記)宛てて以下の決議をコミンテルン(EKKI)中央委員会書記局に提案する事を伝えた。 ヴィリー・ミュンツェンベルクが、繰り返し召喚されているにも関わらず8月15日までにモスクワに出向かない場合、ドイツ共産党より除名する。 ミュンツェンベルクは1937年、ヴァルター・ウルブリヒトにからトロツキー主義を非難され、秘密警察から長い間監視された。1938年ドイツ共産党中央委員会から追放された。追放決議は中央委員会通常会議でも中央委員会多数決でもなく、党規に違反して行われた。追放の根拠として、ミュンツェンベルクに党規律が欠如している事が引き合いに出された。彼はドイツ共産党からの追放に先んずる為、1939年3月自らドイツ共産党を去った。彼の党脱退は1938年10月12日から発行されている週刊誌「Die Zukunft/Ein neues Deutschland: Ein neues Europa!」に印刷された。その後、新党「統一社会主義朋友」 党を立ち上げた。 独ソ不可侵条約締結を受け、今日まで有名な「ロシアの背後の一突き」 (der russische Dolchstoß) と言う記事を1939年9月22日に雑誌「未来」で掲載した。その中でヒットラーとスターリンに対抗して平和と自由を守らなければならず、反ヒットラー・反スターリンの戦いを通じてドイツ労働者の独立した統一党を新たに作りださなければならないと説いている。長年、報道機関は恥ずべき嘘を広め、多くの勇敢な労働者に嫌疑をかけてきた。しかし 今日、多くの人々が様々な国で立ち上がり、拳を振り上げ、東に向かい明瞭に叫んでいる 「裏切者は、スターリン、お前だ」
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